小林秀雄によれば、本居宣長は、あのひとはすこしおかしいんじゃないか、とおもわれるほど、漢意(からごころ・唐心)すなわち物識り人を嫌ったそうだ。それはそうで ぼくも同感であるが、それに加えて、ぼくは日本の、日本人の、世間根性を、漢意(インテリ根性)よりももっと遙かに深刻に嫌っている。それこそおかしいんじゃないかとおもわれるのが本望であるほどに、日本人の世間根性を嫌いぬいている。インテリ根性が嫌いなんていうのは遙か昔に卒業してしまっていることに、いま気づいている。それより、学の有無にかかわらず日本人が浸っている日本的世間性という体質のほうが、ほんとうの知性と精神のために致命的なものとして、ぼくの嫌い貫くべきものとなっているのである。日本人は、思想以前の段階では、なかなか、とても、愛すべきものをもっている。しかし、いったん〈思想〉をたどりはじめると、思索そのものに幼稚なものだから、思索に不可欠な「自己の圏」を保つことができず、だから他者の「自己の圏」を尊重することにも無自覚で、無礼な挙に平気で出て恥じない(恥じるとは自覚すること)。思想の礎が無いまま思想を論じ、じぶんの考えとなると思索に値しない世間的発言しかしないのが、日本人なのである。
ぼくは、インテリ根性にもまして、日本人の世間根性を拒絶的違和感をもって嫌いぬき、それと必然的に不可分な無礼さを、殺人的意志をもって怒り貫いている。これまでも読者はそれをよく感じてきただろう。
日本人に必要なものは、思索し感受する刹那においてくらいは、世間を入れない純粋自己空間を自覚し、そこから徐々に世間との内的闘争に強(したた)かに生きるようになるような、ひとつの精神的根性である。思想基盤にそれが伝統として据わっている西欧と、儒教道徳が似非感覚となるまでに世間に縛られて現在でもそれが仰々しく芝居的に再生産されつづけている日本との、精神程度の甚だしい落差は、ここにあきらかなのである。
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高田博厚とアンドレ・マルローという、本来純粋な芸術者が、ともに、どうして、政治的世界とも、明晰かつ強力な洞察力と交渉力をもって生きることができたかの理由を、そろそろ理解してもらいたい。かれらは、己れ自身が純粋であるほど、却って、政治世界ともタフに闘争することができたのである。純粋だから世間にたいして粘り強い。これを日本人が理解し難いのは、純粋なるものが真には知性力を前提していることの理解にも至らない程、知性の自覚に疎いからである。