竹本忠雄著『マルローとの対話 日本美の発見』を隅から隅まで読み、そのなかでマルローの那智の滝での啓示的経験をふまえて書かれた傑作だと賞賛している山本健吉『いのちとかたち』を読みはじめたところなのだが、節題のような警告を表明しておこうと思うに至った。日本の知識人は、その知性世界においても、ほんとうに世間から独立していない。それでいて、この独立のなさを開き直って逆に強圧的な言葉を発している者もいるのは驚きであり、人間の品格に関わる問題である。 だから「コミュニオン」の意味も解っておらずに、日本的世間性と同レベルに転調してしまっているのだろう。はじめからこういうことでは先が思いやられる。 こういうことは、哲学の世界でも日本では遍くみられることである。積んだ学識の意味がなくなってしまうほど甘い。 

 

 

ぼくが高田博厚とともに歩んでいることの正しさを痛感する。

 「孤独」がなければ、「芸術」も、「魂」も、「コミュニオン」もない。

 

 

日本においても、真の人間はいつも、日本の世間崇拝教と闘っている。それを知らないのは、日本の知識人こそである。それでどんな賞をもらっていても、世間性の意味しかないのである。

 

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日本は、世間が、和の顔をして個人に介入し取り込もうとするところである。個がよほどしっかりしていないと、まるめ込まれて、精神そのものが不純になる。高田さんの偉いところは、全く当然のことながら、その精神の節操が微動だにしないことである。高田さん位でない者はすべて危ない。 

 

 竹本氏にもそういう危ないところがある。山本健吉にいたっては言語道断である。余計な不純を流して実をとる読み方をしなければならない。ぼくは勉強をしているのだから。(けっこう読めるので安心。)