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音楽の空間がなければ人間は健全でいられないだろう。音楽が開く空間というものがあって、彫刻・造形が開く空間と本質的に同質である。そこでは批判が為されるのではなく、批判そのものが照らされ基礎づけられ限界づけられる。 

 

 

 

 

ところで、ぼくはバッハとシベリウスとチャイコフスキーを一曲ずつ弾くことができる。ぼくのクラシックのささやかなレパートリーだが、現在、チャイコフスキーがいちばん自分自身に忠実に作曲していると感じる。シベリウスは自然そのものに同化しようとするあまり人間的には人工的で不自然な感じがある。バッハも、宗教感を出そうとするあまり、同様に、人為的計算性の感触を免れていないとおもう。ぼくの感じ方だからひとに強制はしないが、自分の陰鬱さをそのまま音楽にしているチャイコフスキーは、偽善性から免れていて純粋だ。のめり込ませて気がつけば浄化されている。ホメオパシー(同毒療法)的な癒しの力があるのだ。どの作曲家がほんとうに宗教的か、など、軽々しく論じられるものではない、と思う。

 

 

それにしてもクラシックしか知らなければ、ぼくはけっしていま頃、ピアノをじぶんで弾こうなどと思わなかったろう。ほんとうに好きなものの力こそは偉大だ。 

 

ありがとう 正樹さん  

 

 

 

 

(バッハのことを、上で「人為的計算性」などと、それこそ安易に決めつけるつもりはない。ドビュッシーが、バッハに、自分の作曲流儀の基を見いだすほど、バッハには、たしかに感覚的なところがある。ぼくの言いたいのは、その感覚性が、いかにも計算的な仕方で成功している、ということであり、つまり、人間の次元を巧みに超えようとしている、ということだね。これいじょう、いま言えない。)

 

(バッハを感覚的作曲態度の源と見做すドビュッシーにも、計算的に感覚的であるようなところを、ぼくは最初から感じており、あまり親密感は覚えない。'21.9.14)