今年書いたものだが、再呈示の意味がある。

 

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人間の世界というものは問題だらけで、書きたいことがたくさんある。 とりわけ、人間の名誉心という、それ自体は絶対に否定すべきでなく、尊重し肯定すべきものと、この名誉心をめぐって生ずる、自他比較による、殺傷問題にまで昂じる人間問題とは、いくら書いても書ききれない多様な大海である。ぼくも、人生において経験した、ここにはまだ書いていないことがたくさんある。そのなかでも、ぼくが本質的なこととして痛切に感じるのは、人間一般の、まことに呆れるほどの、愚かさである。すべては、自他の名誉心の、適切な配慮の無さから生じている愚かさなのである。 ぼくはその配慮の中核に、人間の魂の名誉への配慮を、絶対的に置く。 そうしたからといってこれを原理にして問題がすべて解決に向かうのではないことも、充分察している。むしろ魂の名誉心が大事だからこそ、人間世界においては、自他の比較意識を介して、多様な問題が一気に噴出するのである。なぜなら、名誉心のあるところ、他を差別する心も、現実の個々の人間の精神的位階への感覚として、必然的に生じるからである。 だから、魂の名誉への配慮を、あらゆる配慮の中心に置くことは、それ自体、人間の世界に、問題と抗争の株を植えることなのである。そしてぼくは言う、この株を植えよ、と。 日本が避けてきたのは、この魂の名誉のための、この名誉によって生じる問題と抗争を、真正面から生きることだったのだ。 日本の、お互いを察し合ったような和気あいあいは、一瞬にして偽善と抑圧に変ずるものである。それにまで気持を合わせることは、即、魂の名誉心の殺害にほかならない。 日本の社会は、問題にすべき人間問題を問題にせず、問題として生きることなく今日まできた。教育・風習、すべて隠蔽と抑圧の装置である。こういう日本的エートス自体がすべての問題の根源である。こういうエートス自体を、日常においても、やんわりとしたたかに突き破り、個々の具体的問題への取り組みによって、こつこつと改革してゆかなくてはならない。 それには、個人が、自分の生活において、自己同一性の意識にほかならない実存的態度に覚醒することが、なにより第一である。 

 

 

 

ぼくが俗物と無縁なのは、他の者が、それが現実だ、と受け入れるところで、ぼくは、魂の純潔の保持のために、そういう〈現実〉を完全絶対に拒否することである。この根源力がいつも他の者たちとぼくを天地の差ほども異なるものとするのである。 

 だから、智恵の質は志が決めるのである。ぼくの志まで上がってこれる者がいるものか。あなたたちとの差が分からぬかね。それで何を言ってもぼくには届かぬのだ。