ここで問題になっている「精神の独立」は、まさに個々の精神の独立者が生まれることに懸っている。日本で現在求められるべきこともこれである。直ちに政治行動を求めることではない。高田博厚の言う「人間」思想はじつに牢固としたものであることが、つぎの文章を引用した「美術と平和」(1974)と題された一節からも、読み取れる。

 

 

《戦後のアメリカとソヴエト・ロシアの巨大な力にはさまれたヨーロッパの知性者が唱え求めたものは「精神の独立」であった。それまで共産党に組していた人々も、この精神の独立を護るためであった。

 長いヨーロッパ経験で、私が見てきたものは「社会悪」以上に強い「政治悪」であった。「社会」が存在する以上「政治」は不可避物であり、それの実施のためには、「悪」を行わざるを得ない。右翼であろうと左翼であろうと政治悪はある。デモクラシーになったら、それならばこの「悪」は失くなるか? 失くならないで「悪」という毒素を「自由」「民主」の名において一般に撒き散らし、一見「悪」でないように見せるだけである。左右を問わず、専制形態を取らざるを得ないのは政治的必然であるが、それだけに「悪」が凝集して「見える」のである。しかし「知性」が社会に対して待つ(持つ)「権威」は、「政治悪」が不可避のものであれ、またそれが右からのもの左からのものであれ、「悪」を是認しないことにある。「権力」や「暴力」に真に対抗できるものは、長い目で見る時、軍隊でも武器でもない、「知性」である。》 

 

(高田博厚『もう一つの眼』 43-44頁)

 

 

 

高田博厚は普遍的な理念を教えてくれる。