〈家のために働け〉と親が子に言うのも、

 

〈神を捨てよ〉と赤の他人に言いうるのも、

 

〈神がいなければ人を愛せないのか〉と言うのも、

 

〈神に聞かなくともじぶんで分かるはずだ〉と言うのも、

 

老若男女を問わず持っている同じ日本本質の暴力である。地獄に墜ちてしまえ。 

 

 

ぼくはこういう日本の人間どもと関係を断ってフランスの修道者になりたい。そのためにフランスに行ったのだ。フランスには神が在るのだ。なんと不思議なことだろう。それこそ人間の本質なのだ。日本本質は人間本質ではないということだ。 

 

 

フランス人に言えば、当然だと返事が返って来るぼくのこの思いも、日本人にはついてこれない。だから何だかだぼくに言っていられる。ぼくをなんだと思っているのか。どれだけ日本人は人間から遠いかということを、よく悟らなければならない。日本で人間に出会うことがどれだけ稀かということを、一生知らない日本人が殆どなのだ。人間の原理となる意識が無くてふわふわしているのが日本人なのだ。出過ぎる日本人にぼくの敵対心は永遠に沸騰しつづける。人間として許すべきではないからだ。懺悔しか許しを得ないと知れ。 

 

 

 

ぼくの怒りもついに具体的本質を現わしてきた。基々具体的経験から燃えつづけている怒りなのだから。そういう怒りからは常に殺しもあるのだ。 

 

懺悔せよ それなくして罰を免れると思うな 

 

 

本来なら決闘事である余りに無礼失礼すぎる日本人よ 

 

 

ぼくも昔武士だったら何人人を殺したことか それがなかったから延長戦になっている 時効はない 

 

 

ぼくは維新を起こした薩摩武士の生粋の末裔だ。生麦事件を起こし薩英戦争も起こした。国外にたいしても国内においてもへりくだりなどしない。おとなしくしているのは仮面でなかったことはない。欧州に行ってもドイツでもフランスでも現地者と幾度も自己の張り合いと喧嘩をしていた。これはぼくの未熟だと思っていたが、そうではなく ぼくの誇り高い本性だと いまは思っている。 そこがほかの日本人と薩摩人では人間が根本的にちがうのだ。喧嘩をするのが薩摩人の本性なのだ。怒りをエネルギーにする。そしてやるからには相手を圧倒し倒す。ぼくはその本性が顕われている現在では稀な人間なのだ。

 

 

 

じぶんたちの思う〈常識〉など問題にならない高い常識があることを予感も想像もできない日本人たちに、ぼくは言う言葉がない。