ピアノを無心に弾いていると、気づく思いがある。いまもそれがあったので、ピアノを中断して、ここに書きにきたのである: 

 

 明治時代以来、士農工商に替わった身分制度は、学歴である。その具体的象徴は、旧制高等学校という権威であり、実用主義の許に、国家に奉仕するエリート意識を冠たるものにした。この新しい身分意識は現在まで堅固に続いているのである。ここでは真の哲学意識など、じつは育ちようがないのである(旧制高校のロマン的教養主義の気風を承知の上で言っている)。国が期待してきたのは、国のために身命を捧げる、各々分際を弁えた国民であり、いかなる意味でも自主独立の哲学徒ではない。国家主義哲学があればよいくらいのものである。それは現在の文部科学省の姿勢にまで受け継がれている。国家は、いったん事あれば、国民の大量の命を犠牲にするのに躊躇しない。そういう国が、どうして、現在の社会的禍においても、フェアプレイをすることが、期待できようか。必要があれば禍をつくりだすこともするのである。 ぼくにいま湧いた思いは、長い間、学歴という身分意識にまんまと騙されてきた、ということである。学校の教育方針など、国家的実用主義に基づいて、人間的に歪められたものであって当然なのである。その、人間の心に操作的に植えつけられた身分意識を抜き取ることこそ、「人間」となるために先ず必要なことなのである。