勉強を持続的にやれる健康状態でさえあれば、教授になることはたやすい。ぼくの場合はそうであった。ほかのいかなる問題もなかった。健康に問題さえなければ、じぶんで敷いたレールの上を行ってぼくは教授になっていた。周囲の評価も得ていたのだから。それが、勉強に絶対必要な静謐を中耳炎をこじらせ不適切な治療によって失ってから、気を晴らすために彷徨いだした(ぼくの言う異変よりもずっと以前の正常な生活の時代のことである)。これがぼくの運命だったかどうかは、顧みるかぎり、なんとも言えないのだ。天罰を受けるようなことはぼくはやっていない。もし、一部の人間がぼくの言動に法外な恨みをもっていたからなら、こちらこそ、いい迷惑だと言うしかない。ぼくが通常の道を歩いてもつまらなかったからだろうか。ぼくがパリ・ソルボンヌ大学で博士号をとったのは、この、じぶんで敷いたレールの道をはみ出して彷徨ったあげくのことであった。 天の導きの妙味を感じることもできるのだ。

 

 

人間は、じぶんが歩けなかった道は、薔薇色に染められているように想像するものだ。 宝は、じっさいにじぶんが決めて歩いた路に在る。 促した状況は運命の声だ。たとえその状況がぼくの不徳によるとしても、その不徳さえもぼくの運命力なのだ。 じっさいにそれからぼくはフランスに生きることができて、いまも思索することができる。学問者としては成らなかったとしても。 唯ひとつ言えることは、ぼくは学問界にひとりでも「人物」がいれば留まっただろうということだ。じっさいにはそのような人物はひとりもいなかった。

 

孤独なぼくに最も大事だったのは、人間関係の質だった。それが決めた。 世間ではなかった。