初年に書いたものの初再呈示

初々しいが、いまのぼくこそ忘れてはならないことを書いている。

文字を拡大。(いまなら相手にしないから書く必要もないことも、この時は書いている。) 

 

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書き続けなければならない。そう決めたからである。そうすればどこかにたどり着くだろう。これがデカルトの生き方でもあった。

ぼくの形而上的アンティミスムという理念(イデー)はそれじたい、実現されて「触知し得るイデー」となることを不断に求めるものである。それ以外に自己を証する道がないからである。「魂」は「感じて」もらうしかない。人間感覚に訴える「芸術」は具体的に実現されたものとしてのみ存在する、それと同じである。そして、「一生懸命やったら〈自分〉しか出ない」(大先生‐先生のことを実はぼくは普段そう呼んでいる‐)。ここに描き彫る対象が先生の世界であっても、解説ではなく魂を籠めるかぎり、ぼく自身の〈自分〉が同時にそこに証されるだろう。そのとき、ぼくの「理念」も、思想として正しく伝わるだろう。(断片の中にも全体の反映が光っているのだから、もう伝わっているかもしれない。)「証明」されて「所有」できる思想というのは「主義」でしかない。それは「魂の思想」ではない。「魂」は証明も所有もされない。「魂」はただ「自分」がそれに創造的ないとなみのなかで「参与」する(participation‐自らその「一部分」となる‐)ものとしてのみ存在する。この理解において哲学者ガブリエル・マルセルと先生は完全に照応し合っていると思う。(ぼくは常に興味深く思うのだが、この二人の思索者は、ともに「孤独」と「交わり」を人間の在り方の不可欠の二極と理解する「形而上的アンティミスト」でありながら、一方が戯曲作家、他方が彫刻家という「証の道」の違いによって、二極の思想上の比重が異なる。)

 ぼくは自然な息抜きとしての「遊び」を否定しないが、どうも日本で芸術に専門的に携わる人々がやたら意識して芸術における「遊び」の要素を肯定的に強調しているのを、どういうものだろうかと思って見ている。「余技」でおやりになるのなら一応「自由」だろうが、芸術そのものに本質的に持ち込むとなると、それでは御本職で何を志向していらっしゃるのですか、と言いたくなる。「正当化」することにかけては実に巧みであるが、「逃げて」いるのだと思う。逃げるのも自由である。「祈りの文化」は、そういう上層部ではない次元で息づいているのかも知れない。「遊び」など通用しない境にたまには自分を置いてみることだ。そうしないと恵まれた知力そのものが徒(仇)となる。鎌倉仏像を持つ末裔が、円空や棟方志功も遊びだと言うだろう。

 

一か月まだ経たないが、歩き続けて、期せずして「世界」の入口にたどり着いたと思う。体調のことまでぼくは知らない。