日本語は国の近代化に役立たないから国内公用語を英語にせよと言った人間が、後には、日本国民の気力を涵養する歴史的動機となるものは天皇制である、と言う。どうも、どちらも同じ精神次元での発言としか思えない。思想者の発言は、もっと落着いた見窮めに基づかなくてはならない、と、いまの時点からは言わざるを得ない。当時の状況そのものが、そういう落ち着きを許さなかったのであろうが、それなら、いまのわれわれが、その跡をそのまま追うような固定観念に囚われているのはおかしい。 日本人そのものがもっと人間として成熟すべき段階に来ていると思う。

 それにしても、国家は国民の命と財産と良心(信仰)の自由を守る機関でしかない、という理念をはじめから持っていた森が、国民の政治参加運動には冷淡で、政府の運動潰しの画策に協力したとは、がっかりした。 いまもそうだが、日本の政治家の本音には、国民にたいする侮蔑がある。だから国民のほうでも、政治に触れることに嫌気をおぼえるのである。 ぼくも触れたくない。

 

 

 

同郷の俊才の熱意(責任意識)と思索と判断は解らぬでもないが、とくに、近代国家日本のなかに、歴史的伝統である天皇を組み込んだ、法制上は近代の産物である天皇制は、すでに日本近現代史におけるその役割を終えたのではないか。このうえは天皇は純粋な歴史的伝統のなかに復帰し、日本の在るべき憲法においても、附帯的扱いでよいと思う。