過去に遭遇した、ぼくに無礼を為した者らに、ぼくはいまごろ果し状を突きつけている。歳を重ねて穏和に和解するどころではない。感情が純粋で若々しく、抑制が効かなくなっている。ぼくとしては三十歳、いや二十代ぐらいの実感だ。昔こそ、じぶんの置かれた立場を過度に意識し、じぶんに抑制をかけて、冷静を装っていた。いまと異なる内面であったのではない。ぼくは昔のぼくのままなのだ。そのぼくが、もういい、じぶんの心のなかにあることをやれ! と言っているのだ。 どう怨念を果たすか、それだけが問題だ。 もう死んだ相手もいるというのに。 

 

 

 

人間の気骨というものは、こういう怨念によって形成されるのだな、とつくづく思う。聖賢たちの言うこととはちがう。かれらにしたって、公開された説教は、路も自覚しない一般に向けたものなのだ。真理をじぶんで探求すると、いつも、実際の真理は一般向けのものとはちがうことに気づく。 

 

 

 

誇り高い者の恨みに、時効は無い。 そのことは尊重すべきだ。 それなのにそれを嘲弄する者は、たとえ親子であってもその縁を切られる。