この二人には、政治と学問という領域区分では納まらない、自己変革のための人間研究への根本志向があり、孫・有正がデカルト研究に沈潜したように、祖父・有礼の、時代が要求した進取開明的自己変革の態度が、おのずとデカルトの「方法叙説」の内容と照応していることに、驚く。この、血で結ばれた二人は、容貌も甚だ深い内的類似をつよく印象づけることは、以前から気づいていた。旧い日本的意識からの、形式ではなく精神からの変革の必要を先ず自分において鋭く痛感するという、内的感性を、素質的に共有していた二人であったように、いまぼくには思われてきている。 有礼に関心が向いたのも、漱石の「三四郎」での終り近くの意味深げな有礼事件の回顧叙述に触れたのがきっかけである。