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意識の「働き」と「存在」をかんがえてゆこう。

 

 


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フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」(Tom's Midnight Garden, 1958)は、感想を述べるにはいろいろなことをかんがえさせすぎる。裕美ちゃんのおかげでよい本を読ませていただきました。意識(生と記憶)というものの深層に沈潜しなければならぬ
 (カーネギー賞受賞作)


 

 

 




こういう本をこのむとは裕美ちゃんはやはり純粋であるとともに、ものをよくかんがえるひとだなと思いました。素敵ですね。






神力を得るには、自分を信頼するとともに 自分の感ずるところに忠実でなければならぬ。「自分らしくある」ということは大変なことなのだ  その都度の貞潔というものがある

誰が見ているのでもない。自分の理念が見ているのだ



「これはよいことだからやろう」は きっぱりやめる

「よいことだ」「よいことだ」で どんどん自己同一性から離れてゆく。これこそ、「地獄の道は善意で敷き詰められている」の意味である。偽善である 



自分の理念が神である。意識が存在するのであれば神もまた存在する。これがデカルトの有名な神証明である。





科学は何をもたらしたか。建設より破壊をもたらしている。それを否定する者は建設の意味をわかっていない。科学がこれほど発達しなければ、ぼくが飲まされたような馬鹿げた身体組織破壊剤も開発されなかった。人類の過去にぼくのような不自然な馬鹿げた身体変容を被った人間はいなかった。昔に生まれていれば普通に自然に生き通せたのだ。科学は、まさに、ナパーム弾を投下したあとバンドエイドを撒いてゆくようなことしかやっていない。建設ではなく未曾有の破壊である。空には無数のタイタニックを飛ばしている。人命尊重なんかではない。

人命尊重なんかではない。魂の内部の韻律などまったく捨象している気ちがい沙汰が科学文明なのだから当然だ。科学の成果に取り巻かれるほど人間は暗愚になってゆくのはわかりきったことで、人類史上これほど人間意識がおかしくなり、自己疎外が意識されないほど常態化してきている時代は無い。機械システム製造に携わっている者に人間感覚が全く無くなっているのは、PCを操作している際の時宜を全く考慮せぬ注意喚起音組み込み一つで完全に実証されている!



身体が破壊されたあと、意識に何ができるか、それをぼくは探求している。
 

 

 

意識の「働き」と「存在」

意識には、「働き」と「存在」がある。働きであるというのは、絶対的意識として働くのであり、これは同時に、存在確信であり、この存在は魂であり神である。この「働き」を専ら重視する実存的意味あいとは別に、意識はそれ自体が「存在」であるようなのである。この存在は生であり記憶である。意識は、身体からの独立性においてそれ自体の存在論的展開をももとめているようである。意識は、人生における「働き」として考察されるとともに、それ自体において「存在」として形而上的考察の俎上に載るようである。そういう次元相異する両面的考察を意識について、意識的にやってゆきたい。しかもこの考察の両面は、それぞれが、意識の「働き」と「存在」を、それぞれの視点から言うだろう。

 

意識には、ヤスパースの実存的なアプローチと、デカルトの省察的なアプローチとが、あるのである。