仏像を作るのには、私にとって何か参考品が必要である。日本の仏像を参考にするのならその本のこのガンダーラ仏を参考にしたらと思い始めた。会場でカタログや写真を買い求め、前のカタログなども参考にし一対の観音像を作り上げた。東山町に続いて二度目の仏像作品である。作り終え、又作りながらもなぜか松川の二十五菩薩が頭に浮かび、又会いたいなとか、粘土で模刻出来たらな、などとぼんやり考えていた。役場の藤野さんに電話をするとすぐ段取りを取ってくださり、粘土や塑像台など色々と車に積み込み一週間の予定で出掛けた。別にはっきりとした目的があった訳ではない。

 

 この二十五菩薩は岩手県の指定文化財なので作っている間町の人二人が替わりばんこに立ち会っていただいた。(しんどかった事だろう。)お堂は公民館が管理しているので、朝九時から夕方五時まで一日一個位のペースで一週間(月~土)みっちりと作り続け、七体の像を等寸に仕上げた。又夜はギリシャの旅の整理などをしていた。お堂で黙って仕事をしていると衣の襞などに遊びが見え始め、「少しくどいんぢゃないの」などと平安時代の仏師と話したりする事がある。でもしっかりとしたテクニック、そして手頃な大きさ、ノミが勝手自在に動いているようで生々としている。この生地の上に胡粉を塗り漆で固め磨きあげる。その上に平泉のように金箔などで化粧する。金箔が残っていることろはないが、胡粉を漆で固めた肌は少々残っている。ふとこれらの木彫が顔も手も足も付き金箔などできれいになっているのをはじめて見たら、はたして感動しただろうか、模刻をしようと思っただろうか、など色々考えながら作った。

 

 奈良時代から平安期に入ると技術面も向上し、一木造りから寄せ木造りへと変わっていく。寄せ木造りとは木のひび割れを防ぐための策で、簡単に言うと彫り上がったものを半分に割り中をくりぬいてしまい又漆などの接着剤で張り合わせる。ここの菩薩もそうだ。小さな飛天達はムクであるが。技術面が向上するとだんだんとおしゃべりになり装飾的になってくる傾向がある。古代ギリシャの彫刻もそうである。ギリシャの彫刻史で言えば、飛鳥期がアルカイク期、白鳳・天平期がクラシック期、平安期はヘレニズム期、ざっとそうした感じである。平安後期のこの二十五菩薩は、水に流されてしまい細部がとれ表面も荒され余分なものがなくなってしまった。その結果彫刻のもつ本質的なものが浮かび上がってきたのだと思う。だから基は良く出来ていたのである。

 

 でもこんなになってしまった像をこの地方の人はよくお堂まで建て保存してくれたものだ。お堂も作り直したり大変だったことだろうと思う。こうした行為に頭が下がり人間の美しさを感じる。そしてこれらの像は、喜びと美しさをいつまでも発散し続ける事だろう。

 

 土曜日の午前中まで仕事をしたらもう身体が疲れきってしまった。でも車で運搬中急ブレーキをかけて像が倒れてしまったらおしまいである。勇気を奮って七体の粘土に石膏をかけ夕方何とか車に積み込んだが、もう腰がたたない。東京まで帰れるか不安であったが運転は座ってするもの。少しづつ疲れも取れていくようで、いつもよりスピードが上がっていくような気がした。関東平野に入ると風が強くなり時々ハンドルを取られる。台風が接近しているらしい。この一週間の幕にふさわしいなと感じた。

 

 この一週間ほど充実した時間を送ったのは前にも後にも一度もない。私の一生の中でのモニュメンタルな時間であった。』 

 

 

 

 

図録「沖村正康作品集IV 2009年の個展を記念して(三郷工房)」より 

 

 

 

 

 

模刻 坐像 1998年 石膏 H37.0 W40.0 

 

 

模刻 トルソ 1998年 石膏 H40.0

 

 

エチュード 坐像(横笛) 2009年 ブロンズ H28.0 W22.5 

 

 

(同図録より) 

 

 

 

勉強になり、また、いまどき めったに出会えない自己描写の精緻な文章であることに気づき、全文を紹介・記録した。