自分を理解した上で確信したり自己主張したりすることは、常にできることではない。だから、デカルトも言ったように、人生で一度でも自己確信ができたら、その確信に信頼して、常に確信し自己主張してよいのである。

 さらに一歩をすすめて、ひとによっては、充分に自己理解できなくとも、自己確信することが許されるし、しなければならない場合がある、と言えるかもしれない。ぼくはそうしてよかった人間なのである。これはけっして一般化できないことである。ぼくだから言える。

 およそ、一般が受け入れることを期待できない、このような自己信頼をついに表明する機会をじぶんに与えないのならば、ぼくははじめから何も書くことはなかっただろう。 

 この断言のためにぼくは熟慮に熟慮を重ねてきた。ぼくを信頼できる者は幸いである。 

 

 

 

ごく冷静に言って、ぼくという世界の空間に、肉親という権威が入ってこれるような隙などない。 こうなってこそ人間は一人前なのだ。日本の原理は、まだ、勘違いした村社会のものだ。知性の権威を信じていないし、一般は想像もできていない。学問をやっている者でも、世間がすべての基準である。こんな卑しい民族もめずらしい。 

 

 

肉親族には、感情的になるのでなく、この人間の道理をよく理性的に理解させる念を送らなければならない。