初再呈示 

 

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自分にとってほんとうに大事なものを大事にしようとすると、その結果としてはじめて、捨てるべきものがはっきりするそうだ。そうして自分の圏がつくられてゆくのだろう。物にせよ人にせよ、保つべき縁と、捨てるべき縁とを、主体が自ら選択することを宜しとするということだ。

 しかしそういうことをほんとうに承認するほど日本人社会は大人だろうか。各々みずからに問うてみるがよい。そのとき、日本人一般が いかに個々人のそれぞれの道にたいして忖度も思い遣りもないかがわかる。そもそもその前提たる 本当にかんがえる修練がない。(引用した)柳原義達さんの言葉が思われる。〈教養〉を積んでいるつもりの者でも「村社会」を脱しえないでいるのである、日本人は。そういう者らがハイデガーだプラトンだと〈学んで〉いる様をわたしは見てきている(自分と学問との乖離)。それを〈仲間〉意識だなどと言っている。「自分の道」を歩んでいる者が何人いるか。それで「神」になど至れるわけがない。だから高田博厚はまだ日本人には高嶺の花だとぼくは言っている。「あの本(「フランスから」)は日本人にはまだなかなか解らないでしょう。結局、あなたは『神』をもとめておられる」、と、先生のこの書の出版当時、森有正は先生に伝えている。なるほど、彼も同胞(同国人)をよく判じている。わが国民達が、道のひとに向ける態度や〈批評口〉は 大方見当がつくというものだ。そこで〈日本人は…〉と一般規定し得るほど、人間思索の実際は安易ではない。安易に思っているだけだ。
 求めもしないのに他者の神殿に入ってきて〈忠告〉する輩に ぼくは「警告」する、身体を殺されないだけありがたいとおもえ、と 〔ぼくはこの状態なのに外部から相当迷惑をうけているということだ。ぼく自身が物理的に殺されたから、実存的に不正な他者への同情はぼくには一切無い〕。だから、強制する必要の無いものを脅迫的に強制するような「日本主義」者を、ぼくは昔からずっと嫌いなのである。石井氏ほど本物になってみよ。
 長期にわたり不快な思いをしたことが基となって書いているので、日本を愛する方々にはこのあたり御了解いただきたい。


日本的心性の肯定と日本主義(イズム)は全く異なるものである

一方に普遍的人間思惟がはたらき、日本的心性をこの上に活かし価値づけるようでなくてはならぬ
 ―「道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。」―
          西郷南洲遺訓九








沈黙する思惟の修練をしているつもりでも、書く契機という突破口があると、そこから書いてしまう。こうして書いたものである。