素描行為は、対象(モデル)である「もの」と、自己の内なる美の規範との、綱引きなのだ。自己の規範が対象に屈してしまうと、美は成らない。いっぽうで、対象の「もの」もまた、「自然」が生んだ規範(秩序)によって成っている。でなければわれわれの美的関心を惹かないだろう。ここですでに、「もの」とか「自然」とか、ここで呼ばれているものが、同時にきわめて内面的な視界のなかで理解されなければならないものであることが、明らかだと思う。われわれの自己の内なる美の規範、すなわち、美を美として感知する感覚もまた、「人間」をつくった「自然」がわれわれの内に置いた、「ものをものたらしめる規範」であることは間違いない。だから自己の美感と対象の「もの性」との間に、素描という即物的行為において、綱引きが生じるのだ。ここで「調和」を得るためには、技術としての素描の余程の習得が必要だ。対象と自己とが即座に内的照応に入って、双方がみずからを認め合うような境位が、描く者の内部で生きられるような習熟段階が達成されている必要がある。ここにおいて技術(art)の習熟は、そのまま芸術(art)の進展となっているはずである。 

 

対象としての「もの」に美的に惹かれるゆえに為す素描行為において、対象に忠実であろうとするほど、引き出したい美から逸れてゆく場合が、ぼくの如き初心者には起こる。感じているのに隠れている美を引き出すには、よほどの修練が必要だ。それでも努力した分だけは、なにか宿っているような美しい「作品」ができる。そういう、画紙に宿った「美」を、いま眺め感じているのである。