高田さんは、いちばん恐ろしいことは「人間」が無くなることだ、と書いている。これは、人間が「自然」や「神」と自分とを照応させることをかんがえなくなることだ、と言い換えられるだろう。この根本的な文化課題について深く思いを巡らすことが、ぼくがぼくとして生きる課題でもある。 

 

 世のなかはおかしなことばかりで、ぼくの遭遇した事件も、いまの禍も、高田さんが経験した戦争も、人間を人間ならぬものへと背かせ呑み込もうとすることでは同じである。人間から矜持を奪おうとする。 「芸術は反運命的なものだ」 とアンドレ・マルローは言ったが、これは、宿命に抗して己れの運命を成就する、と言っても同じだとぼくは思う。己れの運命さえ持ち得ないのが、いまの世の大方の人間である。 

 

 高田さんは、争乱の渦中においても先ず自分の「人間」を護ろうと、デカルト的な決意で臨んだ。それがどれだけ「個」を超えて普遍的な意味をもつものか、われわれがその「遺品」を前にして感じ思うのは、そのことでなければならない。『無言館』のそれと同じである。