高田さんは、芸術と文化、人間について、あれほど語ったのに、自分の作品については殆ど語っていないに等しい。芸術家のその心情は解る気がするが、自分の作品はどういう次元を目指しているのか、その意図を、もっと語ってよかったのではないか。ある意味でよく語っている。しかそれは本質的ではあっても、一般論、精確には本質論である。ぼくの言うのは、個々の自分の作品についてである。この点では、高田さんは何も語っていないに等しい。だから、高田さんの文章をよく読んでいるひとでも、作品に接すると、わりと情緒的・文学的な感想をもらしてしまう場合がある。しかし高田さんの作品は、ただ情感的・イメージ的なものとは違う次元を志向しているようにぼくは思うのだ。そういう志向や意図を、もっと個々の作品に即して、語ってほしかった。そういう語りを残さなかったので、或る者は、じぶんの感性にうぬぼれて、トルソはいいが、寝そべったような人体像はマイヨールを模したみたいでつまらない、などと、失敬なことを平気で言ったりするのだ。高田さんがただスタイルを真似ただけのようなものを造るものか。しかし平凡な一般人は、高田さんの志向が解らないでただじぶんの感じ方だけで浅薄に断定するのみなので、やはり高田さん自身の註が、残されてあるべきだった、とぼくは思うのだ。だから、高田さんの作品は、われわれの前に残された公案のようなものなのだ。じぶんの精神的分際もわきまえず軽々しくものをいう輩のためにあるのではない。 

 

 高田さんの作品については、いまはこういうことを言い留めておこう。 

 

 じつは、次元は違うが、ぼくの、語らないことも、書いておきたいのだ。ぼくは、十年ほど前の一時期、異様な経験を、世界と社会についてした。集合容喙経験として、この欄に主題枠を設けて整理して書いている。ここで強調したいことは、世界がぼくにたいしてやったことを、社会のすくなくとも一部の人々は、じぶんたちも参加したこととして知っている、ということだ。それはひとつの犯罪として追及しなければならない。このぼくの気持は変わらないのだが、それをいまのぼくは表に出さないで生活している。なぜなら、現在、ぼくと世界・社会との間には、ともかくそうとうまともな関係が復活しており、以前のような奇々怪々なものではないからだ。このことは、たとえ観念的・内面的であってもぼくがぼく自身の本来の生を生きるのに、とても都合がよい。まぼろしのようなものではあっても、まるでもとの生活状態に戻ったように生活できることは、ぼくの内面的生にとっても、奇怪な不安や緊張を抱えないでよいだけ、よいことなのだ。すこしおかしなことが時々あっても、以前のおぞましさとは次元がちがう。それを、ぼくが以前の記憶をもちだして世界を自分と対立的に措定することは、いまではすることではないとぼくは思う。主犯者をあぶりだすにも、社会の大方をぼくの側の味方につけて、包囲するほうが、ぼくの精神的安定と調和共存する。ある程度世界は、ぼくが思い信じるように、ぼくにとってはある。ぼくだって、異常な世界にすき好んで住みたくない。だから、世界はいまぼくにとって、ぼくが信じたいようにあると思いたい。これがぼくの、以前の経験や問題を、それを意識に現前化することを控えている、つまり語らない、理由なのだ。記憶と経験を否定しているのではない。ぼくは一貫して正常なのだ。異常になったのは向こうのほう。しかし、どういう正体の人々でもぼくはよい、ただぼくにとって普通の人間を演じてくれているのであれば。孤独は、ぼくの最も得意とすることであるので、実際の人々に、いまさら、信用や不信でかかわる関心が、ないのだ。はじめからないように。