こういう節は、書き加えながら何度でも繰り返せばよいのだ。なにより恐いのは、「人間」をどうでもよいと思う発想である。日本は、〈どうでもよい〉と思うほどにも「人間」を意識していない。フランスは、「人間」のために苦しむことのできる稀な国だ。そこにフランスの知性がある。 ぼくでも、日本では、ぼやっとしていると、ぼくが特別な人間であるかのように錯覚してしまう。そうではないのだ。日本が当たり前の水準に達していない。

 

 

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昨年。 ぼくは日本のニュースが心底嫌いで、今年になって一度も視ていない。 

 

日本人は、もっとゆったり構えて、堂々と自己に落ち着き、よい意味で傍若無人になればよい。人間としてかっこわるすぎる。 傍は他者さまにあれこれ言わないこと。 

 

 

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夕晩のニュースで、コロナ禍で大変なフランスの人々と光景をみたが、この禍にもかかわらず、じつに精神的に癒される。なぜなのだろうと自問している。この禍にあっても、フランスは「人間」がもちこたえているからだと思う。こちらが「正気」の方向を想起させられる。みて感ずればよい。 

 

 

 

それを感じれば、つぎのことはおのずから明らかで、書く必要も読む必要もない: 

 

日本では、いつだって 「人間」が置きざりにされている。そもそも、「人間」になろうとしない。すべてがステレオタイプ式で、「いい子」になることばかり。向こうでは、いい子になろうとする者などひとりもいないばかりか、それでは人間として通用しないことを知っている。