昨日
上の節で紹介している高田さんの文章を読みながら ぼくがかんがえたことは、日本人の、自然にたいする態度のことである。日本人は、他の民族と同様、自然を畏怖と感謝の念をもって崇拝すると同時に、箱庭化することが好きである。小さな庭や植木鉢の世界に、自然の宇宙を凝縮した気になって鑑賞し遊ぶのである。これはどうしても、自然そのものと自己とが直接に対峙する境とは程遠い。自然を解釈し、観念化して、舐めている。それで精神的なつもりでいる。要を得た歴史的な反省分析は高田さんの文章にゆずるとして、ぼくも、常日頃、西欧の印象派絵画に構図の斬新さや色彩効果の点で影響をあたえたとされる日本の浮世絵版画にも一般に、自然と自我が直接対峙した迫力は感じない。その情感表現は感じるが、その精神背景つまり態度に、メタフィジックな探求心は感じない。きわめて俗な精神枠があるのである。自然も、人間自己同様、この俗枠のなかでは形無しであり、それは、日本人にとって、自然よりも(したがって自己よりも)重要なのは、世俗権威だからである。世間が神様であり、これを越える契機となるであろう裸の自然と対峙することは、仏教的儒教的な人間自己否定の伝統態度の精神枠のなかでは、いかにも起こり難いことであったと、ぼくは感じる。こういう日本では、自然に即し忠実である描写も、細密画法の方向の域を出ていない。これはメタフィジックに迫る域ではない。そうぼくは思う。日本では、芸術領域でも、人間の自己が世間的視線への配慮をほんとうに脱ぎ捨てて、純粋自己として自然を感じ描く態度は、どうしても出て来なかった。どこかに世間に媚びたところが、描く精神態度そのもののなかに、あるいは技法そのもののなかに、根深くある。それはけっきょく、描く主体の精神質の問題だろう。日本が近代西欧とぶち当たったのは、みずからの伝統と称するものを根本的に反省し、高田さんの指摘を借りれば、古今以前の万葉の、自然感覚と人間感情の直接な力強さを回復して、古くて新しい「伝統」と「創造」の真の意味に再覚醒するためであったのでなければならない。