世のなか、とくに日本では、何でも読めるゆえに何もほんとうには理解しない者がごろごろいる。そういううぬぼれ屋はとくに医学系に多い。そして何でも一見解を言うのだが、それが良さそうにみえて独り善がりなのである。じぶんには医学をこなせる一定の知力があると思っているゆえに、それがかえって落とし穴になって、何でも理解できているつもりになっている。この、解っていないのに解っているつもりになって読むことができる意識のありようが、ぼくには想像できない。学歴秀才にはこの手の、自己過信というより自己錯覚にはまり込んでいる者が多い。思想研究家にも多いだろう。なぜなら、ペーパーテストの日本教育体制では、とにかくテスト問題を〈こなす〉ことが要求されるから。そして、教師も、じぶんが教える学科をほんとうに理解してなどいないから。そういうなかでたまにほんとうの反省力のある生徒などがいると悲惨なことになる。ぼくはそういう者の典型だった。 

 

これを覚え書きしたのは、日本人の知力のなかには重大な落とし穴があり、それが当人たちにとってものすごく自覚しにくいということを、はっきり言っておきたいという一事のためである。日本人の知力の重大な欠陥は、昔も今も変わらない。その根は、社会と伝統そのもののなかに、日本人の映し鏡のようにある。ぼくはそれを承認しないで克服しようとする一個の人間である。なぜなら、ぼくの素質と本質のなかに、日本の日本性とまったく相容れないものがあるからである。これはぼくの例外性を示すものであるよりも、むしろぼくの人間としての「普遍性」を示すものである。その「普遍性」は外国で実証され評価された。 

 

 

すべて高田氏が気づき告発している日本問題である。