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愛は、決意である。すなわち、呼びかけに全的に応える行為である。それは、受動と能動とを全的に発現させる「人間の完成」である。この決意は、みずからを投げ入れるような帰依として同時に自覚される、さて措かれないものへの自己の同意である。 

 

 

言葉は、それを生んだものへ還るものである。言葉はそれを邪魔してはならない。 われわれは、なんと、〈人間ではないもの〉を入り込ませていることであろうか。 真の「思想」は 「沈黙」においてのみある。

 

 「人間」への祈りは 「沈黙」への祈りであり、これが 「神」への祈りである。 沈黙を離れているすべてを拒否すること。

 

 

 

 

 

きみは鍵盤を叩くということがけっしてない。おどろくべきことだ。だから聴く者の心の扉をたたく。

 

 

 

 

 

日本は自分を生きようとすると周囲からいろいろ不快な差し出口を受けなければならない処だ。個への尊厳感覚が土壌にない(個を尊重すべき理由が理解されない)処だから。そういうなかで自分を生きるには、意識の力が必要だ。この力をぼくは探求してきた。その力がデカルトのコギトだ。「拒否する力」、これがどういうものかは、これを己れの内で実現することによってのみ、理解される。 

 

 

 

 

 

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「沈黙を離れているすべてを拒否する」、これは、「もの」に即することと同義である。 リルケとアランが同時にある。 

 

 

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ぼくはこの「愛の定義」と題した節で、愛の定義のほかに、いかにしてじぶんの清澄な孤独を護るかに想いを致し、デカルトのコギトの境位を想起し現前させる、ひとつの意識操作を語っている。デカルトはわすれてはならない名である。とくに日本のような処では。 

 

デカルトの孤独は 愛の砦である。 

 

デカルトには、たしかに、ロマン・ロランがオリヴィエを通して語る、ほんとうの「フランス人」の秘奥に触れるものがある。

 

コギトの孤独の境位が薄れると、ぼくは情念的に混濁してくる傾向がある。自戒すべきだ。