プライドに点火せよ
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- 自分に向って
いかなる造形よりも、きみの魂を愛することが根源
ぼくは、正常である場合のぼくの意識のありようを、意識して想起しなければならない。この状態は、自分でこれを経験したことのない正常なきみたちにはわからないだろう。そのかぎりでは、ぼくへのすべての君たちの判断や推測、想像さえ、誤謬なのだ。
この状態でどうやって自己を保つか、これがぼくにとって最大の哲学的問題である。 これを日々遂行しているぼくを尊敬すべきだと思う。この欄を書き始めて、この課題から離れたことはない。 そのために書いているのであって、きみたちとは意図目的が根本的に異なるのだ。
多少とも教養あるしっかりした者は、ぼくが要らぬ多言をしなくとも、ぼくがなんであるかをわかり、丁重な態度を持する。
まともな教養のないしっかりしない者は、ぼくが多言しないでいると、ぼくがなんであるかをわからず、無礼で、このぼくと張り合おうとする。
過去の経験を顧みると、人々は截然とこの二つに分かれている。
人間は、教養がなければ謙虚さを知ることはない。
ぼくが敢えて自分のことでこういうことを言うのは、世に異例であることをもちろん知っている。それを意識して言っているのである。こういう状態で努力して生きているぼくには、それを言う必要と資格がある。
ぼくは、ぼくにたいしてぞんざいであることを、どんな者にもけっしてゆるさない。だれでも、ぼくにたいしては、「絶対的な距離感」をおのずから持たなくてはならない。そうしない者をぼくはゆるすことはけっしてない。こういうことをじぶんで言うのはぼくがはじめてでも、すこしも構わない。評判などをぼくは気にかけない。言わなくとも、これはぼくの本音であり、人生において一貫してきたものだからである。誰でも、ぼくより上に出ようなどという言語道断なことは、斬殺されずにはすまない。そういう意識そのものが斬殺に値するのであって、まともなひとはそういう意識はもたない。人生において一貫してきた自己尊厳感情を、こういう異常なことにならねば一生黙ってじぶんのうちに仕舞ったままであったが、こういう異常状態において、まったく意識的に(故意に)はっきり言葉にし、闡明しておく。 これがぼくの確固不動の態度であり、この態度のなかにおいて、ぼくはじつに柔軟で謙虚なのである。真の人間とは、ぼくのような者なのである。
穏健にみえて(実際そうなのだが)峻厳このうえない実際に斬る刀を帯びているのがぼくである。矛盾も分裂もしていない。