初再呈示   こういうことはほんとうに書いていてよかった。人生はその最初期に、一生を養いうるものをあたえてくれるのではないか。それを、ありのままに、しかも文学の香り高く、こころにとどめなければならない。これが創造なのだ。 文学というものは人間に本性的なものだ。それはイデアリスムにつながっている。   

 

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穏やかで温かい健康な夏の空気のなかにいると、あのいちばん幸福だった小学高学年から中学の時代のことを、いまのことのように思い出す。そのように昨日か一昨日も思い出していた。ぼくの思春期は幸福で、学校にゆけばあの子に会える、と、夢のように充実していた。ぼくはその子と、級長と副級長をしていた。邪念がまったくなくてしかも頭が良く、自然体で俗をよせつけず、きりっとしっかりした、愛されタイプのかわいい子だった。こういう分析以前に、その子と同じ机に隣り合っていると、理由なく嬉しくて幸福だった。邪念と無縁でまっすぐした子なので、話すときには正面からぼくの眼のなかを透視するように自然にじっとみつめてきて、心を全部みられる気がしてどきどきした。勉強で分からない所をぼくが教えようとすると、真剣に集中してなんのためらいもなくぴったり体をぼくに寄せてきて聞き入った。ぼくがあんまり感じてしまって、思わず「あの、ちょっと」と呟くと、怪訝な表情をしてまたぼくを正面からみつめてくるのだ。先天的に母性的な子で、こだわりのない愛情を感じさせる子だった。これがぼくのほんとうの初恋のひとで、ぼくは心底運命のひとだと真剣だった。真剣すぎた。その子の「存在」は、ぼくの「存在」の半分で、ぼくのかたわれだという感覚を、ぼくはまったく自然にはっきりと自分で抱いた。この子としか家庭を持つことはかんがえられないと、真剣に結婚を心のなかで決意した。ぼくの心はその子なしには在りえなかった。そして、ぼくとその子は、相思相愛だった。同じ中学に進級したとき、隣クラス同士で、制服姿になったぼくたちはあらためて顔を見合わせてぼくのほうからあいさつした、そのとき、あの明朗で凛とした彼女がぼく以上にはにかんで、紅潮して顔をかくしてしまった。ぼくこそびっくりし、そしてその瞬間、はっきりおぼえている、感動と歓喜のあまり目の前に金色の幻影が見えたことを。その見えたものをぼくはやがて実在のものとして知るのだが、なぜそれが見えたのかはわからない。ふたりの前世に関係があったのだろうか。




この子はぼくに愛情というものをはじめて経験させてくれた。そのまわりには、さまざまなそれぞれの魅力を経験させてくれた子たちがいるが、別格に、ぼくにわすれられない優美の記憶を刻印してくれた、ひとつ年下の子がいる。やわらかな性情であるが、幼少からバレエのレッスンを続ける芯のつよさがあり、華麗な心奪う舞台を、その子の本性のように見せてくれた。「青い鳥」の男の子役を踊った。そのこのうえもなく素敵な姿は、大先生がフランスに渡った当時、そこで出迎えるように「フランスの優美」を先生に見せてくれた妖精の幻影(ヴィジョン)のように、いつまでも記憶にのこってぼくは憧れている。幼い頃から、ぼくの家にもときどき遊びに来ていて、プレゼントももらったりした懐かしい子だ。感覚(センス)が美事に洗練されてスマートでいながら奥ゆかしい、美しくかわいい子だった。いつしかその子もぼくに想いをよせてくれるようになっていたことに気づいた。