哲学は、すべてを勉強しなければならないというものではない。哲学史の問題はぼくの問題ではない。最初、哲学を学ぼうとして遭遇したのは、哲学史であった。これが、ぼくがいちばん当惑した、哲学の姿であった。このような哲学を学問として研究することは、ぼくが哲学することとは関係なかった。むしろ、こういう哲学を研究する者は、哲学が何かを自分の内で気づかない者であると、ぼくには思われた。自分とは関係ない、観念の連鎖を研究している。ぼくの、哲学史としての哲学、つまり学問としての哲学への当惑は、むしろ心理学を学ぶべきではなかろうか、とぼくに思わせた。ぎりぎりのところでぼくを哲学に留まらせたのは、唯一ヤスパースの、いわば心理学的哲学のみだった。ヤスパースもまた、根源的な哲学を、学(科学・科目)となってしまった哲学から蘇生させようという、遠大で深遠な哲学理念を実現しようと立ち上がった稀有な人物だったのである。ぼくがとりつかれたわけである。 

 

ぼくはヤスパースの手引きで、哲学をどう学ぶかを、その立脚点としての実存の理念から、教わったのである。