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ぼくにほんとうの縁ができるとしたらこれからだな。だって、いままでは、敢えてする体験入学みたいなもので、無理してつき合うふりをしていたのだから、縁が実るはずはないよ。うらぎられたと思っている者は、最初からある根源的疎遠に気づかなかったのだ。それにしても本気でつき合ってくれた。恩寵のように思えたのだろう。ぼくのほうでは、縁の基準を充たしていなかった。正確に言うなら、ほんとうのつき合い方を知っていれば、ぼくとの縁を得られたのだ。ぼくのせいにするのは高慢と無知である。

 

ぼくこそ高慢にみえるなら、それは、真実を逆さにしてみているのである。自分を保ちながら一貫して謙虚だったのはぼくのほうなのである。 

 世は、謙虚謙虚と標語のように言うが、ほんとうの謙虚の意味を知ることは大変なことであり、己れの全真実存在を懸けなければ会得しえない。

 

 

〔ぼくにたいしては、ゲーテにたいするエッカーマンのような人物が、現実的にはよいだろう。ぼくを批判できると思うほど身の程知らずなことはない。ぼくの全意識と全経験をもってぼくはこのことを言う。〕

 

 

 

 

 

ところでスピリチュアリズムは、やはり観念論だよ。 ぼくの思想のほうが根源的なのだ。 なぜなら、愛は、自己の学びの経験素材と見做すことはできないのだからね。 愛は根源であって、そこでは自由も放棄される。そしてはじめて内的秩序というものを知る。 

 

観念論の本質は、自己充足的態度の肯定である。それでは真実にも現実(本来的な)にも達していない。それを告発するのが実存の境位なのだ。

 

下手なスピリチュアル欄を読むより、ぼくの欄をお読み。〈霊界のお告げ〉などという責任逃れ無しに、「人間」として自分の思想に全責任を負って書いている。

 

 

 

 

ぼくは、いくら言いたい放題言っても、真実がその通りであるために、誤らない人間なのだ。その感覚で、昔からもっと言いたい放題言えばよかったのだ。なにがそれを妨げていたのか。ひとつには、他者の立場がよくわかるということ、思い遣りが過ぎるということ。ところが、ぼくのような意識(知性)をもつ人間は少ないことを、経験は教えた。

 

絶対的意識の保護作用が過度に働いていた。そこにぼくの根源的品格もある。