日本人は「東洋的無」などを深遠なものとして自慢するが、深遠であるのは自己の経路の質を条件とする。人間の自己の経路の深さに、日本は西欧にとても敵わない。西欧的自己にとってこそ、「東洋的無」への遭遇は、なにか深いインスピレーションをあたえるかもしれないが、それに西欧的自己は己れの経路の全重量を懸けているのである。たとえばリルケの窮極の境位を迎えるものが日本人の生きているいわゆる伝統のなかにあるなどと想定すること自体、リルケの自己経路の真摯な厚みへの冒瀆である。 

 

ほかの西欧思想家の日本や東洋の文化への言及についても、日本人はそもそも学者が自己経路不在だから、おろかしい勘違いをしている、とぼくは思っている。 

 

 

そういう指摘を高田博厚は日本人としてはじめてしているのだ。