思惟される自由というものは全くの観念である。いま書いたこの文も同語反復である。ただ思惟されるだけのものを観念と云うのであるから。そういう観念に基づいて自己を反省してはいけない。存在する自己というものは、観念に照らしてどうこう評価できるようなものでは全くない。 

 科学が問題としてきたものは、そういう観念としての自由でしかない。それを、実験室で検証しようとしてきた。愚かなことである。

 

 自由という観念と対照的に思惟される必然というものもまた、その正体のほどが知れようというものである。 

 

 

 

 

 それを言うなら、どんなに恣意的に為したと意識しているつもりの言動も、必然なのである。 為さないこともできた、為すこともできた、だと? なんと戯けた反省だ! 抽象もいいかげんしろ! 思惟にできることは、思惟による一種の企投(即自的価値認識と展望)のみだ。 

 

 

 

自由そのものなどというものは何も意味しない。とてつもなく深い根源をもった自己の「存在」のみが、問うに価する。