思慮分別は曇りである。無思慮無分別において本心という真理が現われる。その光線のとおりに行動することは、あとで後悔するかもしれないが、その行動の純粋さはなにものにも替え難い。 

 

 

いま通っているピアノ教室の教師を、即、断わることにした。音楽への愛が無いのに教えていて、しかも高慢な毒があるので、授業を受ける側の情熱が曇り、こころが傷んでくる。これいじょう、生活の秩序のために何となくつき合うことを、止める。 教える熱意が無く、ひとの取り組んでいるテキストへの敬意が無い。  

 

 

その前に、礼を覚えさせるか、ぶん殴るかする(ほんとうに殴る)。 

(そうしなければ、地に足のつかない偽善の高慢者でないかぎり、絶対に後悔する。) 

 

 

 

たかがピアノを弾けるだけの人間が、先生などと呼ばれるからつけ上がる。「先生」という呼称は、典型的な思考操作である。学校教師ぐらいの人間が、何が「先生」の呼称に相応しい内実を持っているというのか、じょうだんじゃない。 ぼくが本を研究する時間にピアノを弾いていたら、ピアノ教師になれていた。しかしピアノ教師がぼくのように本を研究したとしても、ぼくの書いたような本は、三回生まれ変わっても書けまい。おい、ピアノ教師、ぼくを先生と呼べ。 先生と呼ばれる空間とはちがう次元で生きることをしてきたから、じぶんのプライドを忘れていた。先生とは、学校やピアノの教師ではなく、フランスで博士を取り、長年大学で教えてきたぼくのような者のことだ。おまえたち、はきちがえるなよ。

 

芸術家のピアニストだけが、誰でもはなれないのだ。