昨年暮れ。最近のものにも、ぼく自身忘れないようにしなければならない深い感知のものがある。この節は、よく再読した。再呈示にちなんで題を圧縮した。

 

愛は、包括者である。 ありきたりの一面的な愛論の絶対化を、恥ずかしく思わなければならない。 愛そのものが、海のように深遠なのである。 

 

 

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かつてずいぶん愛読したこの書(押田成人「遠いまなざし」)を机に乗せたのは、内容を繙くためではない。書題を借りるためである。「遠いまなざし」は、「秒速5センチメートル」の貴樹君が再三みせる表情なのだ。種子島の女の子を憐れむように見つめる彼のまなざしは、分かるようでもありながらずっと気になっていた。そしていまぼくは分かった、「この子とは一緒になれないな」、と、その子の関心があまりに身近なものに注がれているのをみて、寂しく感じている彼の表情だったのだ。向かっているものの距離が違いすぎる、と。 

 

この作品だけ残して、他の漫画作品は、観衆の記憶から抹消すべきだと思わせる、後に尾を引く秀作で、価値が独立している。ほんとうによく作られている作品だ。 

 

 

明里ちゃんは貴樹君と一緒にいても、「遠いもの」に集中しているのね。それに気づいて貴樹君が思わず襟を正すシーンは印象的ね(パラレルワールドで)。だから、彼は、「手紙からぼくが想像する明里はいつも独りだった」 と感じるわけ。そういうふたりだから、この世の日常では一緒になれない運命だったのかもしれないわね、種子島の子とは全然ちがう方向で。

 

 

人間の愛というものは、ほんとうに人間にとって真の深淵なのかもしれないね。海を前にしたニュートンの謙虚さに倣って、愛を前にしてはわれわれは小さな子供であることを忘れないようにしなければ。