この渾身の感動的節を初再呈示 

 

言葉・文章によっても人間の浄化はあるのだ。自分の書いたものによって、いま、ここで、それを確かめた。 ぼくは自分の文章に懸けよう。 


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ぼくは、人生が始まる前に人生を終わってしまうようだ。二歳で死んでゆく子供とあまりちがわないというのが正直な実感だ。人生そのものを「準備」(ベライトシャフト)とみたり、「想起」(アナムネーシス)とみたり、「或る目醒めへの道程(シュマン)」とみたり、つまり、人間が「思惟する存在」であるということは、必然的に、有限な人生を突破超越する志向をもって生きるということである、といえる。ここで心しなければならないことは、そういう「超越志向の思惟」において、できうるかぎり緻密であらねばならず、浮足立った安易な観念にとりついてはならない、ということであることを、この瞬間にもますます切実に感じる。人間が「人間」に、本物になるか否かは、ここにかかっていることはあきらかだ。真実の者になるか、偽りの者になるか、そういう決定的に重要な岐路が、まさに自分のみが自分を判定しうるような仕方で、自分自身にかかっている・・そういう緻密さと誠実さの自己課題に、ひとりひとりは直面している。これこそが「人間の生」であり、「人生」の本質なのだ。そういう峻厳な自己吟味を、担わないのであれば、大衆という蔑称に甘んじるか、無恥に開き直るしかない。そういう者が多いほど、「人間の尊厳」の意識は薄れてゆくのが、社会であり、民度とはその様相のことである。「ただしくかんがえることに人間の尊厳がかかっている」(パスカル)とはこのことであることを、各自はいっさいのうわつきなく自覚すべきである。そして日本はこの人間課題において、まさに二歳の子供のように未熟であり、人間の尊厳の条件の殆ど以前である、ということを。世で人間の生が軽く扱われるのは、為政者の暴圧だけでなく、国民ひとりひとりの、人生をかんがえるいい加減さに、責任がある。「実存は己れの超越者に面して己れ自身となる」(ヤスパース)とは、教義ではなく、各自が自分自身に誠実に緻密に関わる(行為する)ことのなかで、それが必然的根源的であることに気づきつつ確認するような、謂わば公案的命題なのである。己れへの緻密さと誠実さなくしてこれを確認することは不可能である。緻密さのない誠実さは盲目であり、誠実さのない緻密さは空虚である、と箴言化しうるものである(カントの直観と悟性、ヤスパースの実存と理性の連繫にかんする箴言と同様)。人生が与える経験量にもまして、与えられた経験にいかに緻密で誠実な思惟を働かせ、「人生が人生の中だけでは為し得ないものすべて」(デュ・ボス)〔高田博厚「分水嶺」巻頭句〕にたいし「準備」し、あるいは魂の想像力のなかで「想起」するか、ひとえに個々の「人間の思惟」に懸かっている。人生が結局、約束してくれていいはずのことも与えてくれないなら、人間の総合的思惟力、すなわち「魂の想像力」が、人生成就のためにますます「人間の条件」なのである。
 
 人生は、何を経験しえたかにもまして、何を想念しえたかであろう。

 
〔この節を書きはじめたとき、こみあげてきた想いとしてあったものを、どうにか言葉にしえたろうか。作文は、着想(インスピレーション)からはじめる作曲に似ているだろう〕


ぼくの欄には、ありきたりのスピリチュアリズムにあきたらずもっと直截に求めるべきものを求める読者が訪れているだろう。これは当然であって、宗教の代用と自立的探求は、違うのである。


ぼくの直観は、超越志向は人間であるかぎり精神本能的にあるが、この超越を真実に果たすには、いかに具体的な自己生密着沈潜の思惟行為が必要であるか ということであり、この思惟行為を真実に(つまり誠実かつ緻密に)果たすことが、「人間の思惟」すなわち「哲学すること」(フィロゾフィーレン)である、ということである。それは予めの法則性や教義に拠ることなく、純粋に、すなわち自己の自立的思惟行為のみによって、「超越する決断」に至り、「超越する瞬間」を見出してゆく、全人格的精神行為である。それは、自己の生を真実に、つまり純粋に借り物に依らずに人間として生ききることそのものである。そして、およそ人間の真理なるものは、そのような自立的生の貫徹をとおしてのみしか会得しえないことを確信することである。