昨年 


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この両者は、ぼくが尊敬することのできる知性人であるが、哲学思想家であるこの両者に、互いにきわめて対照的な面があるので、それを記しておく。高田氏は、哲学を志した頃、日本の著名な哲学教授たちに会うために貰っていた紹介状を、すべて破り捨てたひとであった。その正直で鋭い感覚に、ぼくはいま同意している。他方、今道氏は、やはり同様に哲学を志した頃、出会うことのできた日本の哲学教授たちに、終生、感謝の情を表明していたひとである。ぼくには、このナイーヴさのほうが不可解である。 ぼく自身は、哲学の教授であるということで初めは敬意を懐いていた人々に、その後は幻滅を重ねてきた者であるので、そういう経験をしなくとも日本の学者なるものの本性を察知していた高田氏に感服している。だから、そうとうな知性者であり、高田氏と同様に美と芸術への関心に生き、カトリックの修道院生活に憧れた時期があることでも共通している今道氏が、けっしてお人好しどころではないのに、恩師尊崇の念に生きているのを、そんなものかなあ、と引っ掛かっているのである。 

 

 このくらいにしておく。

 

 

高田氏は生粋の芸術家となり、今道氏は生粋の学問人となった。そのちがいは勿論であるが、「哲学人」としての高い同質さもぼくは感じるのである。

 

(一度擱筆すると、記しておくべき事が浮かんでくる。これは自然な想念浮沈のリズムである。)