一か月前。 ぼくもずいぶん他を評してきたが、それはぼくにおいては、ちがった意味をもっている。ぼくは、自分の、人間の、魂を護るための言表なら、敢行する。なまやさしいことを言っているべきでないと感じる場合は。

 

ぼくは、魂のための言表なら、最後の審判を受けよう。ほんとうの審判だけだよ。中傷なら全魂を挙げてこちらから破壊する。 

 

 

やっぱり、魂の純粋血統は、ロマン・ロラン、高田博厚さん、そしてあなたね。 

 

稀少価値人間だよ、いまはね。魂のために怒ることのできる者だ。   

 

 

 

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大学入試制度のために、どれだけ日本が狂わされ、偽善化されていることか。

 

人間は、一生の間に、〈東大〉クラスになればよい。世間はみとめなくてもね、みとめる者はみとめる(私的にも 公的にも)。そういう認める者は いつも真の意味で選ばれた少数のエリートたちだ。馬の骨のような世間大衆たちではない。 

 

そういう機会をものにできたこと、人間の路を誤らなかったことを、ぼくは自分の人生に感謝する。 

 

 

(この付言は、他の非公開節から写したが、魂のために怒ることと本質的に結びついているぼくの内心吐露だからである。この怒りは嫉妬どころではない。)

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「評価することは、評価されることより なお おそろしい」、と、ジャン・コクトーは云ったと、高田さんは言っている。この意味をぼくはいろいろかんがえすぎていたようだ。コクトーは、みずからの経験から、他を評価(批評・比較・位階づけ)する者には、もっと厳しい評価がかえってくることを、知ったのにちがいない。そしてその評価は、じぶんが他を評価したのより、その分、辛辣で的を射ており、正(ただ)しくじぶんを審判するものとして、苦しめるものなのである。この、じぶんにかえってくる、罰そのものであるような評価は、神から直接降りてくることもあれば、他を介することもある。いずれにしても、「審判」の意味をもつ。「最後の審判」を。人間はそういうように造られたことを、いまここでぼくは真面目に信じる気になっている。高田さんは、「他を評価した私には、最後の審判があるだろう」、と言っている。芸術家のみならず、万人にあることを、ぼくは知って(感じ信じて)いる。 なぜなら人間は、他を思うのにあまりに謙虚と敬虔に欠けているから。 ぼくは、そういう人間たちからは すこしは隔たった、自省と良心の平安にあずかっている人間のひとりであると感じるよろこびを享けていると思う。 

 

 

(ほんとうに、軽々しく嬉々として他を評する者らには、真の「審判」があってほしいと、魂の底から思う。)