学者とか学問とかいうものは、自分いがいのもので勝負しようとする者や世界のことである。 いかなる教養でも知性でもない。  

 

これがいまぼくにひじょうにはっきりしたので記しておく。

 

 

そのことに静寂のなかで気づいたとき、自分の一手一歩ごとが詩人のものとなる。 

 

 

 

あなたは、繊細な自分になりきれば、それで完璧なのよ。 

 

ほんとにね。だれが義務なんてものをかんがえたんだろう。義務は、緊張して伸びるだけで、人間は もとの自分に戻るしかないのにね。義務は、果たされない幻影なのだ。なのにそのほうを現実だと思っている。あらゆるニュアンスで、義務はわれわれに錯覚を起こさせている。 詩とは、そこからの離脱、聖なる帰還なのだ。

 

 

ところでぼくは大きな魂の義務を覚えている。客観性の地平からのものではない。ぼくがよろこんで魂の心血を注ぎたい義務だ。 

 

それこそ あなたの勉強ね。 

 

詩人にも勉強と研究があるんだよ。自分の本質をしっかり自覚した上でね。学者や学問とははっきり違うんだ。

 

 

これはすごくおおきな自覚だ。 評論とは自己がなければありえないからだ。