二か月少し前に初再呈示したが、ほんとうによい節だ。ここに再々呈示する。ぼくの、教養と品格の自己主張にふさわしい。大人物と向き合える自分を培っていない者が、なにを言っても論じてもたかが知れているのだ。こういう構えは本来ならしたくないが、いまのブログ空間では、ほかの大方から徹底して距離を置く気持が、過敏なくらいぼくのなかで高まっている。ぼくが いかに自由でこだわらない人間であるとはいえ、ここでは、自分の本来の価値意識はじぶんで護らなければならない。 とくに集合容喙被害者としては、他と同種の被害に遭っているというだけでは、全然同じ精神次元に生きていることにはなっていない。被害者の精神程度に応じて、人生における被害の意味は各々異なっているのだ。 

 

 

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初再呈示 
 


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いつもこのくらいの時刻(0~1時)になると、こちらで求めもしないのに、なにか気づきがある。だいたいは、ああそうだよな、という、解るべきことの確認なのだ。いまのは、「概念というのは概ねの念である」という、わかりきったことの、言葉そのものによる確認である。おおよその思念である。たとえば誰それはフリーメーソンであるということが歴史上の人物についてよくいわれる。それで何か人物の正体がつかめたかのように思うなら、どうしようもない。人間を知るということは、概念を突破して入ってはじめてその一歩なのである。例であるフリーメーソンも、最近は陰謀論が立ち入った分析をしていて、名誉どころか悪評に傾きがちである。そういう分析の意義を否定はしないが、「人間」が問題であるかぎり、本物の人物ならば、独立的精神を保っており、フリーメーソンということで価値づけたり否定したりは、自他ともにしない。他の例で、マルセルがカトリックだということでどうだというのか。人間の内容に入ってゆかずに外部から整理してしまおうという横着で怠惰な常人の念が概念なのだ。ルオーはカトリックだ、それで?ということにすぎない。組織陰謀論の歴史的検証は、実証的であるかぎりおおいにしてくださればよい。しかし、それによってヨーロッパ文化すべてを特徴づけ概念することは、「森を見(眺め)て木を見(観ぜ)ず」の態度であり、人間教養を怠った社会政治論の見方であるにとどまる。人間を理解するとはそういうことではない。ここで問題となっているのは「本物の人間」であり、それへの本物のアプローチである。それをゴシップ的通念で怠惰に済まそうとするのが、個々の大衆であり、堕落した尊大さがその特徴である。概念で、じぶんたちの次元に引き下げて〈判定〉して済ますのである。そればかりをいまの〈社会常人〉もやっている。

 

 よし、このくらいでいい。毎夜のこういう時の費やし方はもうやめたい。人間態度の整理と確認である。