初再呈示 

 

自分の本業に沈潜できないなら、ピアノはやらないほうがよい。

他との比較は要らない。自分はどうかということである。 



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こういう言いかたをして成功するか失敗するか分らないが、高田先生、森さん、辻先生の各々の特徴を決めるポイントは、〈ロマネスク〉(小説的世界)への関わり方にあると思う。森さんの「経験」の思想は、「感覚」から「思想」が生成する正しいありかたを、そうでない「体験」というありかたとの対比において示すところに要諦がある(普遍的な思想へと生成するか、一般的な処世訓の如きものに留まるか)と言えるが、この経験思想のインスピレーションを与えたのは高田先生の思索と生と創造であるとぼくは思う。森さんは大学人であった自分のそれまでの思想の基盤を根源的に立て直す方法をそこから学び、自分の生において意識的にその実践・実験を試みた。まるでデカルトの思想創造過程をあらたなかたちで実践するかのように。森さんの有名なエッセイ群はその〈実験ノート〉と言える。そこで、これらエッセイはそれ自体創造的なロマネスクの特徴を帯びるに至る。(辻さんはこの意味で自身の師を「詩人だ」と言ったのだと思う。)多くの森さんの読者が魅力を感じるのはここだろう。そして弟子の辻さんはこの人間の生の思想創造的過程を文芸としてのロマネスクそのものにおいて実現することをめざした。それをぼくは感知して、このあたらしい物語小説の次元に感激したのだ。辻さん自身は小説家としての自覚をもってあくまで「物語」の世界に生ききり、そこでのメタフィジックの実現・顕現に賭けた。そのような意味で書くことそのものの方向に生きることを一元化させ、仕事と生との間隙を自分に許すまいと奮励した。(同時にそのような過度の自己没入とのバランスを生においてとるために大学の教職をも続けた。)一方、森さんは自身の本質について「思想でなければ満足しない」人間だと述べ、自身のあらゆる試みは真の思想理解・創造のためのものであることを明らかにしていると思う。(キリスト者であるかないかも分岐点になっているのかもしれない。)さて、高田先生であるが、この人こそは実人生そのものが伝説でありロマネスクであるというまぎれもない端的な芸術家であり、仕事と生活と思想との間に意識的分離などもとから入り込みようのない人であった。先生にたいしては本来不適切な表現であることを承知で言うが、先生との出会いはぼくにとって思いもかけない真の禅者との出会いのようなものであった。それ以来ぼくは、それ以前の恩人への感謝を忘れないようにしつつも、先生とともにある。