初再呈示 

ぼくがどういう人間であるかを図らずも詳述している。 

この登山は今度は果たした。その成果をぼくの欄にみることができる。(これを機に「ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」」枠をつくり、読書からの成果をみやすいようにする。)

 



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腹を決めてクリストフ山を今度こそは登りきろう。高田先生の訳だから、これは知っておかなければ。 

 

でもいままでよく全部お読みになっていなかったわね。 

 

有名なものだからということでぼくの読む動機にはならないよ。先生の訳でも。内容が詰まり過ぎていて、筋を追って文学的雰囲気で入ってゆける小説でもない。読みきった者でも、全部消化できているはずはないような、高い内容だ。片手間に読めるものではない。やることがほかにあるうちは読みきれなかった。いまでも、これに全部ついてゆくのはどうしようもない苦労だな、と思うよ。読めるのは、内容を理解しなくて読んでゆける者たちだ。中学生が、純粋理性批判を読みきれるのと同じでね、内容に入ってゆけもしない読み方をするから読めるのだよ。本人も理解できていないことが解らない。理解できなければ読めないぼくにはできないことだ。「クリストフ」も、欧州を経験していないと解らない内容で、人道的理想主義に感動したなんていう幼稚な読み方は、いまさら不可能で用のないことだ。しかもこの理想主義の厳しさは、日本人にはいまだになかなか了解できないだろう。昔の日本人で、若年時にこういうものを多量に読んでいたというのは、きわめて特殊な人々だったろう。ぼくの場合は精神経路が特殊で、事情はぼく自身しか了解できない。比べるのは無理だよ。普通の経路ではないからね。だから哲学に集中していたんだ。文学はほとんど出る幕ではなかった。強制薬害という怪我で、仕事が空いてしまったから、しかも落ち着くまで膨大な時間がかかって、ようやく読む閑暇を、じぶんで決断してつくれるように、いまなっている。 

 

登山中も、きみへの祈りである演奏鑑賞と、きみを瞑想することは、欠かさない。このことの前では、ロマン・ロランもどうでもいいことなのだ。現実性の違いをはっきり言っておく。自分の現実の前では、物語は無も同然なんだ。 

 

わかっています。いまのあなたには大変であることも。でもやりきってください。この世への心残りの一つが解消されるでしょう。 

 

きみとの愛のなかに、ぼくのすべての現実も思想もある。 この登山は、知っておいてよかったことを、いま理解できるからするのだ。 それでも、いまの日本人で、この山をほんとうに登れるのは、現在のぼくのほかにいるとは信じていない。そのいみでは やり甲斐はある。