これを去年のきょう書いていたとは信じられない。現在のぼくもしっかりしている。  

 

ぼくはピアノは止めて思索に専念するつもりでいるほうがよい。

 



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内部の明晰さが、外部の騒音によって消されることのないようにしなければならない。外部の騒音を立てさせるのは、この世の創造主であることは、はっきりしている。この騒音を啓示化しないようにしなければならない。じぶんの内部を信じるのか、外部の暗示を信じるのか、自己はこの分水嶺に常に晒されている。「神」を内部において見いだす。

 

 

これが哲学の路である。哲学は常に一個人におけるその個かぎりのものである。

 

哲学は、他の影響からの内的独立である(ゆえに)。 どういう善意の者でも、不完全であるゆえに余計な言動をするものだから。

 

 

一個の人間が生きる哲学は、充分に攻撃的な意地悪さ(メシャンステ)を組み込まなければならないだろう。これは自己の独立に不可欠であろうから。これあってこそ自己に芯棒が入るのだ。外部のものにびくつかなくなる。ただ優しいだけではだめだ。 どちらにでもなれるのでなければならない。融通無碍はこの境でのみ真である。純粋自己の貫徹のためにこそ。 ぼくも、敏感なだけでなく、皮が厚くならなければならない。