デカルトの方法的懐疑と拒否の本質がこの瞬間解ったと思っているところであるので、記しておく。ちゃんとした道理があって疑い拒否してゆくのだと彼は言っているが、ようするに、じぶんにとって信頼するに足らないと思われるものは、ことごとく捨て去る、という、きわめて乱暴なことを彼は、方法の理念の許に敢行しているのである。それは、他から影響されなくなるために、ぼくが、世間的には暴言のかぎりを尽くして、しかし本気で、過去に遭遇した人間たちの人格力が無効になる精神状態に自分を導こうとしていることと、同じなのである。 

 

必要なことは言った。 

 

 

 

ようするに、デカルトという哲学者は、その思想内容そのものよりも、その精神態度において、ぼくと照応するものを見いだす、そういう意味での仲間なのだ。ぼくが自分の路を歩み、内的行動を内的促しによって起こし深めるほど、興味深くぼくと呼応する、そういう仲間である。 

 

 

 

 

 

こうしてぼくはデカルトの、長年味わってきたあの壮年期の気難しい表情を理解する。自分以外のものの確固とした拒否を自分に定着させた威厳の表情なのだ。こんな意味ある立派な肖像がよく描かれたと感服する。このフランス・ハルス筆の大きな原作をルーヴルでぼくは観ることができている。 

 

この肖像をみていると、デカルトが人間としてこのまれない理由もよくわかる。彼とのつき合いは思想観念上で充分だ。ここに一度は呈示した肖像画はとりさげた。若い頃の肖像はあんなによいのになあ。

 

 

でもねえ、このハルスっていうオランダ人画家、ほかの人物の肖像でも、まるで、むくつけき っていう言葉がぴったりの、人間本質の一面を無骨に誇張して描く傾向があるようだから、問題のデカルトの肖像も、哲学者の特徴をよく引き出して捉えたのではあるが、実際のデカルトはもっと人間味のある印象をあたえる人物ではなかったろうか。でなければ、エリザベトやクリスチナのような高貴な女性とのつき合いも無理だったのではないかな。(ぼくの影の意見) 

 

ぼくもそういう気持になっている。文章がいちばんそのひとを伝えるのだよね。