「評価することは、評価されることより なお おそろしい」、と、ジャン・コクトーは云ったと、高田さんは言っている。この意味をぼくはいろいろかんがえすぎていたようだ。コクトーは、みずからの経験から、他を評価(批評・比較・位階づけ)する者には、もっと厳しい評価がかえってくることを、知ったのにちがいない。そしてその評価は、じぶんが他を評価したのより、その分、辛辣で的を射ており、正(ただ)しくじぶんを審判するものとして、苦しめるものなのである。この、じぶんにかえってくる、罰そのものであるような評価は、神から直接降りてくることもあれば、他を介することもある。いずれにしても、「審判」の意味をもつ。「最後の審判」を。人間はそういうように造られたことを、いまここでぼくは真面目に信じる気になっている。高田さんは、「他を評価した私には、最後の審判があるだろう」、と言っている。芸術家のみならず、万人にあることを、ぼくは知って(感じ信じて)いる。 なぜなら人間は、他を思うのにあまりに謙虚と敬虔に欠けているから。 ぼくは、そういう人間たちからは すこしは隔たった、自省と良心の平安にあずかっている人間のひとりであると感じるよろこびを享けていると思う。