「最後の審判」という想念が必然的なのは、人間が自分の人格について受けた侮辱への怒りは、いくら時が経っても決して消えず、復讐を果たさずにはいられないからだ。時々、恩寵などの作用によって消えるように思われても、それは一時的な状態にすぎないことを、経験は教える。 いわゆる融通無碍の笑いなどによって笑い飛ばす境地には、浅い意識によるものが多いとぼくは思う。真の笑い飛ばしは、「最後の審判」の想念を窮めた境地をさらに突破したところにしかない、と思う。そこまで真摯に深まることのできる人間が何人いるか。誰も自惚れることはできない。 

 

 

「最後の審判」を真に笑い飛ばすことは、「最後の審判」そのものの成就にほかならない。それは徹底的な軽蔑の笑いであり、「審判」の実現そのものであり、恐ろしい。 ほんとうに軽蔑して笑える者は、それだけで覇者である。 

 

 

ぼくもそろそろ正面から徹底的に笑い飛ばして前に進みたい。 ぼくだからできる。