愛は憧れと懐かしさとである  魂の門  インマー・ジンプラー   

 


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愛は根源であるような生の目的であるから、

愛は懐かしさであるような憧れである  



すべての美は真に美であるとき、

このような愛の覚醒と想起とであることを理解させる 






 



事実を信じるのではない。事実そのものが人間の念によって成立している。信じることが事実を創造するのだ。無根拠に信じるのではない。信じることは、感じた本質を顕現させることなのだ。

美は、本質感知と本質顕現とである。 

愛と美と信仰


愛することが信じることでないならば、それは地獄の門である。 



魂の門 

Jaspersと高田博厚 


そろそろぼくも書くより自分の勉強に専念してよい頃である 


(メーヌ・ド・ビランを経なければ、ぼくの思惟は緻密な経験実証の訓練を経ないままだったろう。 マルセルはいまでも奥の院である。) 


テーズ証明 
パリ第IV大学博士証写し 

論題:「メーヌ・ド・ビランにおける哲学と宗教」






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この欄という宇宙もだいぶ膨張してしまったので、振り返りつつ、今度はこの自分で創った宇宙そのもののなかに入り込んで探索しながら、あらたな創造をまちたい、そういうふうにして一段落して落ち着きたいと思っている。そういう様子はうかがえることと思う。ぼくの欄そのものがそういう生きているものなのだ。

 
ところでこの欄の右のいちばん上に彼女の最初のアルバム、インディーズ作品といわれている五曲より成る作品を置いていることの意味は大きいのである。この作品はその後のメジャー作品、もちろんかけがえなくすばらしいのは証言してきたとおりであるが、その作品たちと趣の異なるものを顕著に感じさせる。独特な、聖堂で弾いているような「厳粛さ」を感じるのである。ぼくのように感じる聴者はどのくらいいるのか知らないが、数の問題ではもちろんない。すくなくとも特殊な精神状態と雰囲気にそのとき彼女はあったであろう。これが彼女の「本質の本質」、ほんとうの本質であろうとぼくは感じている。いくども言ってきたことを深めるのみである。そしていつもあたらしいなにかを感じる。

 

ぼくは言葉でなく彼女を表現したいと思っている。 

 

 


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きわめて重要なことを不意に気づいた:

言葉は 正しい観念(想念・印象)連合を起こすためにあり、そのために紡ぎ構成されるべきである。正しい観念連合とは、それによってイデアリスムの実現に奉仕するものである。これが思想であり、思想はそのようなものとして規範をもつ営為である。何でも思いつきや自堕落の言い訳を思想として認めてはいけない。

真の「体系」とは その観念の連合構造のことであろう。


パスカルが、人間の問題・悪は、自分の部屋に留まっておれぬところから生じる、と言ったのは、「部屋」を自分の内部、自己と向き合う圏 ととらえるなら至言である。

 


〔言葉による創造、言葉によらない創造、どちらもかけがえのないものである。〕



ありのままを認め愛するということは、本質を認め愛し得てはじめて言えることである。


ベートーヴェンが「インマー・ジンプラー!」(よりいっそう一元的に!)と言っていたということは、人間は分析されるようなものとしては生きていない、ということである。そういう魂を証しなければならない。そういう証に、魂の自己同一化(存在すること)が懸っている。それは幼児であり大人であり神なのだ。悲しみであり怒りであり愛である。どうしてひとつからすべてを規定したがるのか。傲りである。自分が自分になっていないからである。自分になることがどんなに大変なことか想像もつかない。これが「純粋自我」である。しかし幼児でもすでに至っているのではないか。カレイドスコープの幻。幼児のまま大人になっているひともいるのではないか。そしてわれわれにはそういうひとを理解することがとてつもなく難しいなどとわれわれは言うのだ! 自分自身に至る難しさである 


これが最高の自己正当化である



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ぼくの体は強制薬害で神経組織が壊されて、一象徴的な症状として、自然な眠りが夜にできない状態が、強薬強制による身体異変の2010年以来つづいている。心的ストレス等によるものではなく、神経組織そのものが壊されたことによる不眠症状である。睡眠導入剤の服用によってのみ眠っている。一日も例外はない。昼夜の気分差を意識しないので、どうしても静かな夜をなるべく起きてすごす傾向がある。神経破壊によるその他の沢山の全身体的症状のなかをぼくは生きているのである。どうにも生きている気がしない。そういうなかでも生じる気づきや思いを文章にしている。心には、身体によらない動きがあるのである。読者の生きている意識と、ぼくの生きている意識とは、違うのである。嘗ての薬害以前のぼくの意識と現在のぼくの意識とが違うように。

上に博士号証書の写しを載せたのも、集合容喙連の無法(どういう人間の歴史を破壊したのかという)を強調するだけでなく、いまのような状態となったぼくとしては、自分の本来の生の歴史の証をこの世に刻んでおくためである。








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