初再呈示  傑作な節を書いていた。 

「良薬 口に苦し」などと得々と云う向きが昔からあるが、諺(ことわざ)もその真理度を量ることができるようでなければならない。 

 

自分を反省できない求道者は、無道心の学人と並ぶ害悪者である。

 



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耳が聞くことに逆らうものは、ことごとく真理に反するものである。真理に反するものを耳は聞きたくない。だから耳は障害を起こし、聴力が低下する。聞こえなくなっても、真理に反するものに心が汚染されるよりは良いからである。これを、聞くのを嫌がるのは素直で謙虚でないからで、その罰として耳が聞こえなくなる、と、詭弁を弄する者が、世には案外多いようだ。これを馬鹿とも気違いとも云うのである。反対であり、真理は耳に快いものである。真理を聞くと、耳をはじめとして体は健康になる。聞きたくないものには、間違いがあるのである。表面の言葉のみならず、言葉の響きに込められている心の状態が、倒錯しているのである。それを、聞かなければならないものとして押しつける、その本人の心こそ、濁っているのである。気違い・馬鹿とは、このことを云う。

 

 

音も同じであり、愛の祈りである音楽のみが、聴かれ、奏されるべきである。そういう心が、聴かれるべきなのである。愛の祈りの籠もらない音は、他が出すのも自ら出すのも、やはり耳をはじめとする体の健康に反する結果を生ずるものである。そういう音なら、聴かないほうが、弾かないほうが、よい。聴きたくない音は、聴くのをやめるのが普通の行動だろう。普通そうしている。ところがここに陥穽があって、練習の名のもとに、一定の量をこなそうと、強引に自ら弾くという行為がある。そういうことをすると、心は不愉快になり、耳は聴力が低下する。勉強も同じなのである。一過性の症状のうちに、悔い改めて、中止すべきである。強引なことをやっていると、魂を損なう。心を打たない音楽がどうして多くなったか。愛の祈りを忘れたからである。 

 

 

 

ぼくのような人間の言うことは、耳に逆らうことはない、と確信している。真理だから、「やはりそうか」と受け入れられ、健康にするだろう。