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まさにこのとおり。科学的視点をもつことは、自分の「人間」のなかに「非人間」を培い、自分の砦とすることである。この切実さは、人間となっていない人間から傷つけられた純粋者でなくては解らない。俗物は解らないだろう、もともと皮が不純に厚いのだから。これは純粋な者の問題なのである。ぼくは「砦」を随分習得したことを歓ばしく思う。

 

 


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人間となる」という。これを甘くかんがえてはならない。規範にしたがうのではなく、自分になることなのだから。それは、自分が「人間」となるために、自分の純粋を妨げる他者を否定することである。これはそのかぎりで自分のなかに「非人間」を培うことである。「非人間」を内包しない人間は、およそいかなる「人間」でもない。「人間である」ことは、けっして、直接状態への自己還元ではない。それとは反対のことなのである。自分の純粋のために、この純粋を妨げる他者を殺せるか。この他者否定を自分の「人間」のなかに取り込めるか。これが「人間」の条件なのである。 

 

 

なぜこういうことを書くかというと、高田博厚を否定する人間から、ぼくは随分傷つけられているからである。この傷はぼくのなかに常に純粋を妨げる雑音としてある。こういう雑音の元である人間を否定することが、ぼくの純粋保持の絶対条件なのである。専らこの課題のために、この節を書いた。こういう否定は、たえず為さねばならない力仕事なのである。 ぼくはまだまだ、人間を無差別に尊重しすぎている。

 

 

ところで、福井市美術館刊の「高田博厚作品集」にこうある:

 

『高田にとって終生のテーマである「神」。自分の中の「神」との対話と「美」が見事に凝縮された彫刻群であった。社会的名誉を一切求めることなく、ひたすら仕事をし続けた』。 

 

高田さんには、「美の修道僧」の本質があった、とぼくは思う。生活そのものがメタフィジック(宗教的)であったのだ。 こういう人物にたいしては、礼儀というものがある。上の言葉に接して高田さんへの尊敬をあらたにしたぼくは、同時に再生される、高田さんを否定した人間への怒りで、ぼくの純粋世界への帰還を妨げられている。この思いが、ぼくにこの節を書かせた。「人間」となるためには、「人間」を妨げる人間を殺さねばならぬ、と。身体殺害などというものではなく、「完全に殺す」のだ。この思いが解らぬ者は、「人間」になれない。