真の志のある者と、そうでない者との比は、後者が圧倒的に大きいのであるから、前者すなわち真の志のある者にとって、真の敵は、後者に属する人間たちの放つ否定的人格作用である。真の志の者は、自分の志そのものによって、周囲の圧倒的多数者の反対作用の中に、自己措定するのである。 悪魔は純粋な者を見つけると、全力を挙げて潰そうとする、と云われるが、悪魔は、真の志の者を囲むほとんどの人間の集団のことにほかならない、とぼくは思う。この人間たちが積極的な加害行為をしなくとも、純粋者の志にたいして否定的批判的な見解や思念をいだいているだけで、その人格思念は、人格の作用として、志をもつ純粋者を深刻に苦しめる。人格とは、これだけは聖者も俗物も等しい強さをもっている意志エネルギーなのである。 だから、志をもつデカルトのような哲学者が、高邁の心を説きながらも実際は人間たちをほとんど避け通して生きたとしても、これをもってわれわれはデカルトを、口先だけの思想家として揶揄するようなことがあってはならない、とぼくは思う。 真の志をもつ者は、世の人間関係に何ら拘束されることなく孤独に生きてよいし、それは有志者の義務であるとすら言えると思う。 ここでも日本人は、それができる者は仕合わせだ、と、冷やかす者が殆どだが、そうして問題の本質をすり替える程度の意識段階にしか、知識人でも、ないのである。 

 ぼくが言いたかったことは、学問をほんとうに志すのなら、この世では、他の世間的人格のエネルギー作用(これはそれだけで純粋者の透明さを濁らせる)から自分を護るために、たとえ親兄弟にたいしても、だからすべての世間的人間にたいして、人間として接触を避けることが許される、ということである。 このことをいまぼくは納得したと思ったので、それをここに記したのである。 

 世の人間を、その人格エネルギー作用への警戒のために、学問する者が避けることは、立派で賢明なことである、とぼくは思う。上記のことを理解する者は、これに同意するだろう。 このことに意識的でないと、学問する者自身が、みずからの足場を不安定にするのである。