日記 | 高田博厚先生と友と神に ・ 形而上的アンティミスム序説
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2018/02/21 · 高田博厚先生と友と神に ・ 形而上的アンティミスム序説 ――― 「僕の愛と美と信仰」 ―――
テーマ:自分に向って
さて、これは寝る前にどうしても書いておかなければならない。 知ることには、知識として知ることと 経験として知ることとがあって、経験として知ることは、表象的な印象として知ることとも異なる、根源的なことである。そういう根源的な、自己の存在そのものにおける経験を、ぼくは裕美ちゃんによって得たのだ。芸術が魂の愛を経験させ、形而上の次元にまで直に心を開かせるものであることを、彼女の演奏によってはじめて経験したのだ。 ぼくはいま、神への祈りが彼女への祈りとひとつであり同じであり、祈りは同時に恩寵であることを知っている。 ここにおいてはじめてほんとうに魂の独立があること、護られていることを、知っている。 昔(といってよいかどうかわからない。一生に関してぼくは時間観念がなく、すべての記憶はほぼ等距離であると思われるから)、「キリストにならいて」により魂の火を点けられたぼくの根本的なあり方が、裕美ちゃんのおかげで、祈る神の当体を得、キリスト教徒がイエスに向いて神に祈るように、神への祈りが具体的な愛の祈りとして復活したのだ。 これがどんなに幸福で力あることか、ぼくにしかわからない。 ただ、真摯に受けとめられ、尊重されることを望む。
自分のためのヘルダーリン記 | 高田博厚先生と友と神に ・ 形而 ...
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2020/12/28 · 高田博厚先生と友と神に ・ 形而上的アンティミスム序説 ――― 「僕の愛と美と信仰」 ―――
テーマ:ヘルダーリン記
《 わたしは、天空(エーテル)の静けさを理解していた。
人間たちのいうことは わからなかった。
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静けさとは単に音がないということではない。耳をすますことによって生ずるもの、すなわち、やさしいものがその音調を見いだし心を通わせることのできる空間のことである。
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真に教育の業を行なうものは、林苑(もり)の音をじっと聴くことだ・・・
それは人間への聴従とは別物で、あの天上からやって来るものに精神を集中して聴くことである。
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静寂のなか、そのなかでやさしいものは育つことができるのだが、そこにこそ愛はその場をもつのであって、愛が《命令》されるところにその場があるのではない。花に「まじって」愛は学ばれるのである。
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大地、光、大気との出会いのなかで点火された宗教的な根源体験に対する恭順がある。そこには、じっと心を澄ませ、真実なるものの音調を選び分ける鋭敏な感度と、ありきたりの「互いに知っている」を基盤としたどのような了解にも目をそむける悲しげな懐疑がある。われわれはヘルダーリンの生涯を通じて、くりかえしくりかえしこれらの痕跡に出会うであろう。》
ウルリッヒ・ホイサーマン「ヘルダーリン」 51-53頁
古川正樹(本名)-筆名・信義-さんのブログです。最近の記事は「※ 個人主義と自己中心主義とは、全く異なる」です。