こういう感情的な表現で書きだしたのは、ほんとうに感情的にならずにはおれない不愉快な記憶として、その経験がぼくのなかにあるからである。こういう無自覚で無礼な手合いに、ぼくはいささかも加減する気は無い。ピアノを練習しているうちに、不意にその記憶が、大きな感情をともなって思い出されたので、ずっと思っていたことではあったが、この機会にここに記しておく。 〈馬鹿の中の馬鹿の思惟〉とぼくは、最大の侮蔑の感情をもって、その手合いの思惟様態のことを呼ぶ。この思惟様態の者は、相手の精神を、なんとかじぶんの手に負えるものにしようと、じぶんのなかであれこれと空想する。そしてその空想の結果、じぶんの手に負える空想像をひねりだすと、馬鹿にも、それを現実の理解として得々と盲信し、やっかいな問題の片が付いたと思ううれしさのあまり、その相手の前でも、それを口にするのだ。聞かされた相手はどうおもうだろうか。こいつ、じぶんのなかでなにをあそんでいるんだ、そんな暇があったら、未熟きわまりないじぶんをすこしでも耕すことをすればいいものを、と、応答にも値しないこの者の言葉にたいし、沈黙して去るだろう。こういうやつらは、ひとへの敬意というものをまるで知らない。敬意とは、相手の内容へのじぶんの空想をひかえて、その未知の力の前に、頭を下げることだ、しかも嬉しさをもって。じぶんの理解を超える人間が存在すると認めることは、それじたい、人間というものの偉大さ素晴らしさの認識と等しいものであり、健全な精神の者なら、敬虔な感情に満たされて歓び感動するだろう。 ところがこの類の者らは、それとは反対の、じぶんがお山の大将でいたいという欲求に、いつも駆り立てられているのだ。なんとあさましい、ちっぽけな者らであろうか。それで、こういう手合いにかぎって、じぶんは精神的な向上に生きているのだと、日頃口にし、他にも精神の道を説いているのだから、ますます言語道断である。 さあ、こんな馬鹿のために言葉を連ねるのはもうおしまいにしよう。 われわれはもっと人間にたいし敬虔で教養のある路にいそしもうではないか。ぼくの欄は、そういう真の敬虔な教養の覚醒のために、はじめから自覚的に捧げられてきたのだから。