初再呈示 

 

高田さんの魂の軸は、清潔さにあるとおもう。日本と、何の精神的関係も覚えなくとも、感覚的次元で縁は感じていたのだ。そこから、じぶんだけのために離れるわけにはゆかない。「自分のためならフランスに居たほうが安全なのは知っているのだが、それでここに留まるのは何だか不潔な気がするのだ。やはりぼくは日本人だから。」 と高田さんは言ったことを、ぼくはくり返し凝視した言葉で覚えている。 

 

ぼくはやはり、きみに癒されつつ 高田さんの生涯をたどることに集中するのが正しい。そこに、ぼくの現存在における牢固とした砦がある。精神の真空地帯に入ることだから(真空では雑音が聞こえない)。 

 



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ひとやすみしているうちに或る感慨が湧いてきた: それにしても日本国籍だということで(自分と国との間に何の繫がりも感じないと公言していながら)自らの身のためにも安全だと分かっていてしかも愛する者がいる自分の生活の地を自然体の感覚で離れる決心をする高田博厚という人はいったいどういう存在なのだろう。この後の先生の生死の間をさまよう長期の苦しみを識っているだけに・・ 先生も予想しようともしなかったであろうが、もし予想できていたとしても、やはりおなじ感覚でパリを、フランスを去って縁の無い地におもむいたのであろうか。この人は、心の(魂の)軸を何処に持っていたのであろうか。それがいまのぼくの、自分が先生とよんでいる人への新鮮な感慨である。その本質を気づいていなければならないであろうこの感慨を解く力がいまぼくにはない。くりかえし先生とぼくとを繫ぐ魂の地下水脈へ沈潜し想起(このふたつは同じことだ)してゆかなければならない。遙かに感知しているかもしれないのだが。いま、この感慨を書き留めるだけでせいいっぱいだ。 (きみも自分のこころに問いかけてみてくれたまえ。)