散文詩的だが本気で断言している。  



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ぼくはこの欄で好き勝手なことを言い作っていると見えるかもしれないが、ぼくが本気であり ぼくの心に調和的に触れるものしか入れていないつもりである。そして異質なものは当然徹底的に排除している。ぼくは自分の万華鏡の様々の景色を納めているが、この万華鏡はそれじたい個性があって 自分の映す風景しか示さない。自分の魂の景色しか映さないのだ。ぼくはこの欄で自分を彫るのだと言った。それがこの欄の意味である、と。この鏡が映し得る世界をとおしてぼくは自分を愛し見ているのである。愛とはそれいがいのものではありえない。自分と調和するもののみを愛する。無責任ではない、責任ある愛とは、そのような愛のみである。そして、これがぼくの言いたいことだが、「神」は、ぼくが愛しうるもの、ぼくと調和するものしか、愛さないだろう。ここで「神」とは、ぼくという「個」にとっての神であると同時に、「普遍」そのものである神である。この神は、ぼくがなんらかのかたちで愛しうるものしか愛さない。神は、「普遍」であるとともに「人間」なのである。これが、神が同時に人格であることの意味である。神は抽象的一般者ではない。しかも単に個人的なものとして具体的であるのではなく、同時に普遍的なものとして具体的であるのである。ぼくの言っている意味が正しくお解りであろうか。すこしも奇矯なことを言っているのではないのである。不公正で偏狭な独断を言っているのでもない。ぼくが愛さないものを神もけっして愛さないだろう、つまり、受け入れないだろう、ぼくが受け入れないものを。なぜなら、ぼくがいかなるかたちでも受け入れることができず愛することができないものは、普遍的ないみで醜く悪であることはぜったいにあきらかであるから。そのようなものは滅ぼされるしかない。ぼくが受け入れないものは滅ぼされるべきものである。善悪という観念は相対的で抽象的、つまり観念的である。それゆえ、善悪を判別することを覚えたことにより人間は楽園を追われた。これが原罪である。善人と悪人とを分けるとき、人間はその行為でいつでも原罪を証している。なぜ、美醜で人間を分けないのか。これこそが神の基準である。裁く者は裁かれる。同じ意味での裁きを神が行なうはずがない。判断は誤るが、感覚は誤らない。人間が堕落しているから、美醜が主観的だと世は誤ったことを云う。人間が「人間」となれば、美醜こそ正しい判別の基準となる。人間の正しい判別は、美醜いがいのものにぜったいに基づかない。神は、善悪ではなく、美醜によって人間を裁く。ぜったいにそうである。醜こそは真の悪の定義である。魂の審判はそこで為される。ぼくが醜いと思うものは、神が滅ぼそうと欲するものである。ほんとうに醜いとぼくが思うものは。